俺が病室に入っていくまで、瞬の身体には幾つもの管が絡み巻きついていた。
それが瞬の希望で外されたのは――外すことを医師が許したのは、それが彼の最期の願いになることを、医師が知っていたからだったんだろう。
俺より25歳も若い この少年は、まもなく その命を終えるのだ――。

「だから言ったでしょ。あなたが僕より先に死ぬとは限らないって」
「……瞬」
名を呼ぶことの他に――いったい彼に何を言えばいいのかが、俺にはわからなかった。
俺は、こんな普通・・の死に方に立ち会うのは、これが生まれて初めてだったから。
俺は、傷付いて血まみれになった敵の死と、傷付いて血まみれになった瞬の死をしか知らなかった。

「馬鹿みたい。僕は予定では、あなたの瞬みたいに、あなたを庇って死ぬつもりだったんだ。そうして、一生あなたに忘れられないものになりたかった。なのに、こんなドジを踏んで……」
俺が取り乱し嘆いてみせるわけにはいかなかった。
だが、『頑張れ』『諦めるな』『希望を捨てるな』――そんな言葉を口にすることもできない。
そんなことを言っても、彼は腹を立てるか、そんなことしか言えない俺を軽蔑するだけだろうことが わかっていたから。
俺にできることは、努めて冷静に、冷たく、彼の心、彼の考え、彼の企みを理解してやることだけだった。
理解したことを、彼に知らせてやることだけ。

「君の身体のことを もっと早くに知らされていたら、私はもっと早くに気付いていただろう。君は私の瞬の生まれ変わりではないこと、にもかかわらず 君が私の瞬の振りをした訳に。君が私にこだわったのは――君が好意を持ったのは、“瞬を忘れない私”だったのだということに」
多分、俺は、この場で俺が為すべきことを、正しく為すことができたのだろう。
瞬は――紫色の唇をした瞬は、その目許に静かで穏かな微笑を刻んだ。
本当に、微かな笑み。

「そうだよ。僕は、あなたと手をつないで花を見た瞬じゃない。僕は――僕はただ、僕を忘れない人を作りたかった。そういう人がほしかったんだ。僕が死んでも僕を憶えていてくれる人。でも、僕は、あなたの瞬みたいに、誰かと恋をすることはできなかった。そんなことして、誰かに僕を好きになってもらえても、僕は その人を悲しませることしかできないんだもの」
死んで恋人を悲しませることしか。
だから、彼は 本当の恋を諦め、偽の恋に賭けることにしたのか――。

「僕は、あなたの瞬と同化しようと思った。僕があなたの瞬になれば――あなたは“瞬”を忘れないでしょう? たとえ あなた自身が死んでも、あなたは“瞬”を忘れない――」
それは、あまりに悲しい願いだ。
自分で自分を偽物にする。
それは、自分で自分の存在を消し去ることだ。

「君は、本当は、私の瞬とは違う君自身として、誰かの心に残っていたかったのだろう」
「そうできたなら、それが いちばんよかったんだろうけど、僕は非力で ちっぽけで──僕は何もできない。誰かのために何をすることもできない。僕は、誰かの心に残るようなことは 何もできないんだ。そして、僕は忘れられる。でも、だったら、僕はいったい何のために生まれてきたの……」
「瞬」
「忘れられたくなかった。誰かに僕を――僕は、僕が生きていたことを誰かに憶えていてほしかったんだ……」
本当は、大声で叫びたいのだろう。
だが、既に彼には、自分の心からの悲痛な訴えを叫びにする力すら残っていない。
少しでも自分が生きている時間を長引かせるために、少しでも死の時を遠ざけようとして──彼の口調は静かで穏やかだった。
むしろ、弱々しかった。

「私は君を忘れないよ」
それが彼の望んでいた言葉、彼が欲しかった言葉だっただろう。
俺は、それが死に瀕した少年の願いだからではなく、俺は本当に彼のことを忘れないだろうと思ったから、そう言った。
にもかかわらず、彼は その言葉を喜ばなかった。
彼は首を横に振って──振ろうとして振ることができず、代わりに瞬きを2度繰り返すことで、その意思を俺に伝えてきた。
「忘れていいよ。ごめんなさい。僕は子供だった。我儘な子供だった。愛されたがるだけの、忘れられ 無になることを恐れるだけの子供だったんだ。いいよ。忘れて。こんな馬鹿な僕を憶えているために、あなたの心の一部を割く必要なんかない。僕を忘れないでと望むことは、いつまでも僕のために悲しんでいてほしいと言ってるのと同じだ。そんなことを望むなんて、僕が馬鹿だったんだ。僕のために あなたが悲しむなんて、そんなこと、あっちゃいけない……」
「……」

彼のその言葉に、俺は少なからず驚いた。
死に瀕しているとはいえ、そして、彼が いつも死を身近に感じて生きてきた人間だったとしても――それは、たった15の少年が辿り着く心の境地だろうか。
それは、俺なら――不惑を迎えた今の俺でも――言えない言葉だった。
もし こうして死にかけているのが俺だったなら、俺は瞬に――俺の瞬に、言うだろう。
『いつまでも俺を忘れないでくれ』と。
『俺が死んでも、俺を愛し続けていてくれ』と。
それが、いつまでも俺のために悲しみ続けることを求める言葉だということに気付きもせずに。
気付いていても、言うかもしれない。
俺は我儘な男だ。
瞬が俺を忘れるなんて、そんなことには耐えられない。

「嘘ついて、ごめんなさい。僕は、あなたの瞬がどんなふうにあなたを愛したのか知らないし、憶えてもいない。子供の頃のあなたが あなたの瞬と手をつないで見た花畑も知らない。僕が あなたの瞬だったらいいなあと思っただけなんだ……」
忘れていいと、彼は言う。
俺に悲しんでほしくないからと。
まるで俺の瞬のように。
自分の命が消える時、多分、俺の瞬も そう考えた。

「僕は何も残せない。それが悲しかった。僕が憶えていてほしかったのは、僕の死じゃなく、悲しみじゃなく、同情でもなく、僕が生きていたこと。でも、僕は多分――やり方を間違えた」
「そんなことはない。私は君を忘れないだろう。君は小犬を助けた。私の瞬と同じように」
「小犬? あなたの瞬はあなたを庇って――」
「若い頃の私は、尻尾を振って いつも瞬を追いかけまわしている小犬のようなものだったんだ」
俺が そう言うと――俺は真面目に そう言ったんだが――彼は、
「可愛い」
と小さな声で呟き、目だけで微笑した。
そして、その眉を つらそうに歪める。

「僕は やり方を間違えたけど、でも、僕は自分のしたことを後悔してはいないの。図々しく、嘘までついて、あなたに近付いていったこと。そして、こんなみっともないありさまを、あなたの目にさらしてしまったこと。ねえ、何も知らない子供が何を わかったように言ってるんだなんて思わないで。あなたに会えずに60年安穏として生きてるより、あなたに会って、今15で死んでいく方が、僕は嬉しい」
「……」
生意気で図々しく、礼儀を知らないと思っていた子供が、俺に、『あなたの瞬もそうだった』と言ってくれていた。
俺の瞬も、その早すぎた生と死を後悔していなかった――と。
この子は、本当は――優しい。
優しい子だったんだ。

「でも、できるなら、あと25年早く生まれたかったな。そして、あなたの瞬と、あなたを奪い合いたかった。そうすることができたなら、負けても納得できたと思う。死んで理想化された人が恋敵じゃ、最初から僕には勝ち目がないもの」
今にも消えそうな命を保つ力、言葉を紡ぐ力を、いったい彼はどこから生み出しているのか。
心電図モニターを見ながら、救急救命センターの医師と看護師は、彼の生命力、最後の意思の力に驚嘆しているようだった。
寝台の足元に立つ絵梨衣と星の子学園の園長は、彼等が10年近く世話をしてきた子供の最期の言葉の意味が、おそらく ほとんどわかっていなかっただろう。
彼等はただ、死に瀕した不幸な少年の発する声と呼吸が いつまでも終わらないことだけを願っていた――多分。
俺の前では自分を偽ってばかりいたから、彼は、最後に本当の自分を俺に知らせようとしていたのかもしれない。

「……あなたの瞬は、あなたのお母さんに勝ったの? すごい人だ」
「俺の瞬は、勝ち負けなど考えていなかった」
「僕は、あなたの瞬と違って凡人だから、勝ち負けを考えずにはいられないんだよ」
“瞬”はそう言った――が、本当に、彼は俺の瞬ではないんだろうか。
彼は、確かに俺の瞬に似てはいない。
俺の瞬なら決してしないことを 彼はしたし、彼は俺の瞬とは全く違う価値観と考え方の持ち主だ。
しかし、人間というものは、彼が誰かの生まれ変わりだったとしても、前世の記憶をすべて失って生まれてくるものだろう。
似てはいない。
だが、何もかもが違っているわけではない二人の瞬――。

「僕は生まれ変わりなんか信じてないけど、死後の世界があるのかどうかもわからないけど――あなたがあなたの人生を生き抜いたあと、もしまたあなたと出会うことができたなら、僕は、あなたを、あなたの瞬と取り合いっこするんだ」
「その時、私は80過ぎの老いぼれになっているかもしれない」
「あなたなら、80過ぎてもかっこいいに決まってるもの」
それとも人の心や魂といったものは、実は、その根は一つで、何か一つの大きなものから零れ落ちるように命を得て、この世界に生まれてくるものなのだろうか。

「僕は幸せだった。こんなに誰かの心を手に入れたいと必死になったのは、生まれて初めてだった。あなたに会えてよかった。すべての人に忘れられても、僕は忘れない。それでいい……」
人の魂が、命が、どんなふうに生じるものなのか、この世界に生きている俺には わからない。
死んで彼岸の人間になっても わからないままなのかもしれない。
今の俺にわかるのは、ある日 なぜか俺に関わることになった一人の少年が、その命を懸命に生き、そして その命を終えようとしているということだけ。
俺の瞬が そうだったように。
すべての人間がそうであるように。
それは おそらく、とてもありふれた出来事だ。
そして、ありふれているからこそ悲しい――。

「さようなら。あなたは生きて、幸せになって。そのあとで――またどこかで会えたらいいね」
それが“瞬”の最期の言葉だった。
俺の瞬と同じように、最期の呼吸で 俺に『生きて』と言って、彼はその命を終えた。
それが あまりに静かで穏やかな声だったので、俺はそれが彼の最期の言葉だということに、しばらく気付かずにいたんだ。
気付いても――俺は何をすることもできなかったが。
泣くことも、死という冷酷に腹を立てることも。
ただ、思った。

人は皆、優しく悲しい。
どんな人間も、その心の奥底に優しさと悲しさと、そして寂しさを潜ませている。
その優しい人間が、愛する人と いつまでも共に生きていたいと望んでいるのに、死は情け容赦なく その望みを打ち砕いてしまうんだ。

「氷河さんに出会った日から、それまでの虚無的な態度が嘘のように、瞬くんは生き生きし始めたんです。氷河さんに会って 初めて生きることを始めたように、瞬くんは毎日が楽しそうで幸せそうだった。氷河さんは瞬くんを幸せにしてくれました」
俺は泣いてはいなかったのに、泣いているのは彼女の方だったのに、絵梨衣が俺に そう言ってくれた。
『あなたは、あの子を幸せにした』と。

『人は、生きていれば幸福になれると信じてる』
俺の瞬は、その命を終える時、俺にそう言った。
しかし、瞬なしで俺が本当に幸せになれることがあるとは、俺には思えない。
少なくとも、瞬が生きて俺の側にいてくれた頃の喜びを俺が味わうことは 二度とないだろう。
それでも――そんな俺にも 誰かを幸福にできる可能性はあるのかもしれない。
俺が聖闘士としての務めを果たしていれば、それが誰かの幸せの一助となることくらいはあるのかも。
それだけでも、俺が生きていることには意味があるのかもしれない。
自分の幸せは諦めて、誰かのために生きていようと考える──とは、まるで瞬のようだ。
俺の瞬の生き方。
全く俺らしくない生き方だとも思う。
だが、結局 人は そんなふうに生きていくしかないものなのかもしれない。
それが最も幸せな生き方なのかもしれない。
人は、自分で自分を幸せにすることはできない生き物だから。

人は必ず死ぬ。
愛する者との別れは避けられない。
生まれ変わりも死後の世界も、俺には信じ切れない。
だが――。

『さようなら。あなたは生きて、幸せになって。そのあとで――またどこかで会えたらいいね』
それは、死という宿命から逃れることのできない人間が、最後に抱く希望なのかもしれない。
「ああ、また会えたらいいな」
与えられた命を懸命に生き、そして 既に この地上にはいない人の最後の希望に、俺は答えた。
その希望が実現してしまったら、その時には、あの生意気な瞬は、俺の瞬と俺を困らせかねないが、それもまた楽しいかもしれない。
その時まで――俺は生きていよう。
いつか再び瞬に出会った時、瞬に、『どうして こんな詰まらない生き方をしたの』と叱られてしまわないように。
『氷河、頑張って生きぬいたね』と褒めてもらえるように。
そして、もう一度 瞬に優しく抱きしめてもらえるように。






Fin.






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