「あなた、人足でも軍人でもないようだけど、何者? どういう立場の人なの」
お姫様が、やがて気を取り直したように顔をあげ、ヒョウガに尋ねてくる。
「あ? ああ、俺は医者なんだ。戦うことはできないが、戦いも怪我人も死体も見慣れている。国境警備の駐屯地の医者と交替することになっていたんだが……どうやら、それは無理そうだな。ちなみに、ここからだと、フライブルクの町に戻るのと、国境警備の駐屯地に向かうのとでは、どっちに行く方が楽なんだ?」
お姫様に嘘はつきたくなかったが、まさかここで『実は俺はスパイなんだ』と本当のことを言うわけにもいかない。
ヒョウガは叔父が用意してくれた偽の身分を姫君に告げ、用心のために、自分が早く山賊の群れから解放されたがっている振りした。

「医者?」
陸軍大臣は そうなることを見込んでいたのかどうか――姫君は ヒョウガが告げた偽の身分に すぐに食いついてきた。
「あ……あの、ごめんなさい。僕たち、いつもなら物品しか取らないのだけど――僕たちの村にいらしていただけませんか。必ず無事に帰してさしあげます。あなたのご家族や恋人を悲しませるようなことは決してしませんから」
「俺は、意地悪な叔父が一人いるだけの天涯孤独の身だ。俺の家族の心配は無用だが……医者が必要なことになっているのか」
「ええ」
「なら、同道しよう。本音を言うと、ここに放っぽり出されても困るんだ。俺は おまえたち山賊が恐くて腰が抜けて、徒歩では 山登りも山下りもできそうにない。野宿にも慣れていないし、おまえが今夜 屋根のある寝床を提供してくれるなら、俺は喜んでどこにでも行くぞ」
「ありがとう! 病人を診てもらえたら、ちゃんと馬でフライブルクの町まで お送りします。本当にありがとう!」

陽光をいっぱいに受けた花が咲くように、姫君が明るい笑顔になる。
一点の曇りもない笑顔を浮かべた姫君は ひどく可愛らしく――叫び出したくなるほど可愛らしかった。
ヒョウガは、自分の任務も、今の自分が何者なのかということも忘れ、可愛らしい姫君の前で呆けてしまったのである。
山賊の姫君の顔を見詰め、言葉も声も失ってしまったようなヒョウガの態度を訝った姫君が、僅かに眉根を寄せ、阿呆のようにぽかんとしている男の顔を覗き込んでくる。

「なに? どうかしたんですか?」
「あ、いや、実に可愛――」
「まさかとは思うけど、今、可愛いって言おうとしてる?」
「へ?」
姫君は いつのまにか、輝くような笑顔を消し去っていた。
心もち口をとがらせた姫君に睨みつけられて、ヒョウガは我にかえることになったのである。
姫君は、山賊の捕虜を睨みつける その様子までが可愛らしかった。

「とんでもない! いくら可愛いと思っても、山賊の捕虜になることが決定した今 この場面で そんなことを言っていたら、俺はよほどの大愚か傑物だ」
「……」
『言っているではないか』と姫君から 突っ込みが入るかと思ったのだが、山賊の姫君は苦虫を噛み潰したような顔になって、不機嫌そうに横を向いただけだった。
あの兄を褒められて喜んでいたところを見ると、姫君は自分も兄のように猛々しい男になりたいと願っているのだろう。
実に もったいない話だと、ヒョウガは思った。
もっとも、兄のようになりたいと望んだからといって、そう簡単に姫君が騎士になれるわけもない。
そう考え直し、安心して、ヒョウガは話を逸らしたのである。

「しかし、この辺りの山賊は、こんなふうにして 子供に山賊のわざを覚えさせるのか? 実際の略奪襲撃場面を見学させて?」
ヒョウガがそう言うと、姫君は、なぜか機嫌を直したように楽しそうに笑った。
「まさか。そんな無茶はしないよ」
そう言って、姫君が馬上から辺りを見まわす。
立っている兵は皆無。
人足たちも、半数はどこかに逃げたらしい。
残りの半数は隊列の後方にまとまって頬を青ざめさせているばかり。
それを確かめると、姫君は 一度 大きく深呼吸をした。
そうしてから、姫君は、手に負えないほど可愛らしい声で、
「野郎共! こんなところに長居は無用だ。仕事が済んだら、さっさとずらかるぜ!」
という、処置に困るほど可愛らしい怒鳴り声を周囲に響かせた。
その声と言葉に、ヒョウガは ぎょっとしてしまったのである。

姫君の柄の悪い言葉に驚いたのは、ヒョウガだけではなかったらしい。
10人の騎馬の山賊の中の一人が、子供の手を逸れた鞠のように慌てて姫君の側に馬を走らせてきた。
「シュン様。どうなさったんです、そんな乱暴な言葉を使って! 山賊ごっこでも始めたんですか!」
山賊の姫君を『シュン様』と呼んだのは、30絡みの人のよさそうな男。
さしずめ活動的なお姫様の守り役、お付きの者といった風情の その男は、お姫様と対峙しているヒョウガの姿など目に入っていないかのように、姫君の様子だけを気にしていた。
そして、彼は、姫君の姫君らしくない乱暴な言葉使いに 本気で困惑しているようだった。
そんな守り役の男を見やりながら、ヒョウガは、『本物の山賊に 山賊ごっこをすることができるのだろうか』と、素朴な疑問を抱いていたのである。
姫君は、自身の乱暴な言葉使いで守り役を慌てさせてしまったことを、すぐに素直に謝った。

「ごめんなさい。こちらの人に、てっとり早く 僕が山賊の頭目だということを教えてあげようと思って」
「……山賊の頭目?」
少しも てっとり早くない――と、正直 ヒョウガは思ったのである。
本物の山賊の山賊ごっこなど、冗談としか思えない。
まして、その山賊ごっこで親分役をしたいと言い張っているのは、欧州のどこの宮廷に行っても引け目を感じる必要がないほど 若く美しく可愛らしく華奢な姫君。
たとえ姫君が山賊の頭目だという冗談が事実だったとしても信じられない。
自分が山賊の頭目だと告げるシュンの言葉を、ヒョウガはすぐには信じることができなかった。

「なんです、こいつは」
守り役の男は、元の優しい言葉使いに戻った姫君に安堵したようだった。
安堵して、やっと、姫君の前に見知らぬ男がいることに気付いたらしい。
胡散臭そうなものを見る目を、彼はヒョウガに向けてきた。
「彼、お医者様なんですって。村に同道してくれるそうです」
「医者!」
姫君の言葉を聞いた守り役の男が、短い歓声をあげる。
もしかしたら山賊の村で医者を必要としている病人というのは、彼の身内なのかもしれない。
病人を治療できる者の出現を心待ちにしていたのかもしれない男は、しかし、すぐに姫君の慎重な守り役に戻った。

「それが本当なら有難い話ですが、しかし、素性も確かめずに村に連れていって大丈夫ですか」
「大丈夫でしょう。バーデン大公家とは無関係な人のようだし――彼は 僕たちを憎んでも嫌っても恐がってもいない。村の中でおかしなことはしない。そんな気がする」
「気がする――と言われましても……」
姫君が捕虜に向ける信頼の根拠を聞いて、守り役の男が困ったように顔を歪める。
ヒョウガは 守り役に余計なことを言わせないために、二人の会話に素早く割って入っていった。

「最後尾の荷馬車に、薬と医療器具が入った荷駄がある。忘れずに略奪してくれ」
「ご親切に教えてくれて ありがとう。忘れずに略奪してね」
姫君が にっこり笑ってヒョウガに礼を言い、笑顔のまま 守り役に指示を出す。
本当にどうしたものかと悩みたくなるくらい、姫君は可愛らしい様子をしていた。
――のだが。

姫君が山賊の頭目だという冗談は、どうやら冗談ではなく事実らしかった。
略奪行為を終えた山賊たちの凱旋行列の先頭に立ったのは、他の誰でもないヒョウガの姫君だったのだ。
あの漆黒の馬の男でさえ――シュンの兄でさえ、帰還の隊列を整えたあとでは、姫君の前に立とうとはせず弟の後方に控えている。
狼の群れにおいて、ボス以外の者が群れの先頭を歩くことができないように、山賊たちの序列や規律は厳しいものであるらしい。
もっとも、その厳しい序列も、ナンバー1が姫君、ナンバー2が姫の兄、ナンバー3以下は“その他大勢”で ひとくくり――という大雑把なもののようだったが。

そして、山賊の捕虜 兼 客人のヒョウガは、隊列のほぼ中央に組み込まれ、前後から監視される形で山賊たちの村に向かうことになったのである。
その間ずっと姫君の後ろ姿を見詰めていたヒョウガの脇に 一人の若い男が馬を寄せてきたのは、山賊たちが略奪現場から凱旋行進を開始して30分ほどが経った頃。
彼は笑いながら、ヒョウガに、
「可愛いだろう」
と尋ねてきた。
ヒョウガが何も答えずにいると、無視されたことに気分を害したのか、彼の声は嫌味を帯びたものに変わった。

「だが、おかしな気は起こすなよ。イッキ様は――頭目の兄君は――襲撃略奪の際には敵の意識を奪うだけの不殺を心掛けていて、俺たちにも人の命を奪うなと厳命しているが、シュン様に秋波を送ったり、手を出そうとする奴は平気で半殺しにする」
シュン姫の自慢の兄の名はイッキというらしい。
その嫌味たらしい忠告を聞いたヒョウガは、それでなくても戦争ごっこをしたいほど好意を抱いていた癪な敵に、一層 好意を募らせることになったのである。
「当然だ。俺がお姫様の兄でも そうする」
シュンの漆黒の兄は、これまで姫君に巡り会えずにいたヒョウガの代わりに、姫君を守っていてくれたに違いない。
勝手に そうと決めつけて、ヒョウガはシュンの兄に心の底から感謝したのだった。






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