「どうする、紫龍」 紫龍に問いかける氷河の声が小声になったのは、その短い言葉の内に、とんでもないことを始めてくれたアテナへの非難の気持ちが込められていたからだったろう。 平生は、多少のことなら アテナへの異議も文句も 堂々と言ってのける氷河だったのだが、この件に関してだけは、氷河もアテナに意見し、彼女の心証を悪くするわけにはいかなかったのである。 黄金聖闘士の任命権はアテナにある。 アテナだけが、その権利を有している。 彼女の機嫌を損ねて 望まぬ黄金聖衣を押しつけられることは、氷河は御免被りたかった。 「うむ……くじなど 時の運とはいえ、俺が天秤座の聖衣を継承できないとなったら、老師がどう思われるか――」 「俺も――水瓶座の聖衣を誰かに取られるようなことになったら、まず間違いなく あの世からカミュが化けて出てくる。あの人は、くじで外れたから仕方がなかったなんて言い訳を聞いてくれる人じゃない。節だの筋だのを曲げることを知らなくて頑固頑迷。くじ運の悪さで 守るべき節を曲げるなど言語道断とか何とか 無理なことを言って、理不尽に俺を責めるに決まっているんだ」 氷河は、くじを引いて『スカ』だった時のことを想像すると、それだけで暗鬱な気分になった。 水と氷の魔術師は、ハーデスに頼るどころか、自力で生き返ってきて不肖の弟子をなじり始めそうである。 氷河の師である水瓶座アクエリアスのカミュは、常に 力の使いどころが ずれている男だった。 「ウチの老師も、伊達に200年を生きてきたわけではないからな。無駄に知識を蓄えた人情家の嫌味というのは ストレートで強力。一言でも反駁しようものなら、俺は10年 黙って説教を聞いていなければならなくなる」 「10年か。それも大変だな」 氷河は自分が水瓶座の黄金聖衣を選び損ねた時、紫龍は自分が天秤座の黄金聖衣を選び損ねた時、我が身に降りかかってくるだろう悲惨な事態を想像し、深い溜め息をつくことになったのである。 そんな二人の耳に、ふいに、 「星矢はやっぱり、射手座の黄金聖闘士になりたいの?」 という、瞬の明るい声が飛び込んでくる。 答える星矢の声も、今はすっかり開き直ったらしく、至って軽快なものだった。 「俺、射手座の黄金聖衣はもう何回も着てるからなー。たまには別のを着てみたいな」 普段は、人に言われなければ平気で何日も同じ服を着ているような星矢が、まるで明日着る洋服を選んでいるように浮かれている。 黄金聖衣をまとうことに関して、氷河や紫龍とは違い、星矢と瞬は極めて気楽そうだった。 「瞬は? 俺、てっきり、瞬なら、乙女座か魚座あたりを狙ってるんだと思ってたんだけど、いの一番で除外したな」 「そりゃあ、乙女座は やっぱり兄さんでないと。僕、どっちかっていうと、角があるのがいいな。強そうに見えると思うんだ。牡牛座、牡羊座、山羊座……あ、蟹座のあれも角と言えば角かなあ」 今は自分のことだけで精一杯、人様のことにまで かかずらっていられる状況にはないのだが、さすがに これは黙って聞き流せるようなことではない。 「ちょ……ちょっと待て。おまえが蟹座だと !? 」 氷河は慌てて、気楽そうな二人のやりとりの中に割り込んでいった。 「瞬、おまえは どういうセンスをしているんだ! いや、それ以前に、蟹座の黄金聖闘士がどういう男だったのかを、おまえは忘れたのか!」 蟹座の黄金聖闘士。 それは、言ってみれば、聖闘士としても、一人の人間としても、瞬の対極にあるような男だった。 性格も、価値観も、戦い方も、もちろん容姿も、瞬に重なる点が1ミリたりともない。 そんな男が 眉を吊り上げて瞬を怒鳴りつける氷河を見て、アテナが けらけらと笑う。 「あら、いいじゃない。地上で最も清らかな蟹座の黄金聖闘士なんて、素晴らしく画期的だわ」 「うむ。蟹座の汚名を返上するにはいいかもしれんな。瞬が蟹座の黄金聖闘士というのも悪くはないのではないか。まあ、瞬なら、凶暴な毛ガニやタラバガニではなく、小さな沢ガニやカクレガニのイメージになって、今ひとつ敵に脅威を感じさせることはできないかもしれないが、瞬が身に着ければ あのカニ足マスクも、可愛く見えるようになるかもしれない」 「紫龍、貴様まで……!」 「悪いな。もはや なりふりを構う余裕がないんだ、俺も」 紫龍がそんなことを言うのは、もし担当黄金聖衣の決定が くじ引きでなく話し合いで為されることになったら、蟹座の黄金聖衣を押しつけられるのは自分であるに違いないという考えがあるからだったろう。 気持ちが わかるだけに――わかるからこそ――氷河は渋い顔にならないわけにはいかなかったのである。 そんな氷河に、沙織や紫龍の言に力を得たらしい瞬が無邪気な瞳で頷いてくる。 「そうだよ。蟹座や蟹座の黄金聖衣が悪いわけじゃないんだから、以前 着ていた人のイメージを いつまでも引きずっているのは よくないことだよ。あ、でも、天秤座の武器もいいな。生身の拳を使わずに済みそうだし」 「それはやめてくれっ!」 黄金聖衣に こだわりのない無邪気な瞬のせいで、今度 悲鳴をあげることになったのは紫龍だった。 当然である。 それは――それだけは、命をかけてでも、身体中の血を流し尽くしてでも、紫龍が阻止しなければならない事態なのだ。 もちろん、どの黄金聖衣に対しても全く執着を抱いていない瞬は、ごく軽い気持ちで 十ある可能性の内の一つに言及しただけなのだということは、紫龍にもわかっていたのだが。 この状況下で、瞬は羨ましいほど無邪気だった。 「蠍の尻尾も可愛いよね。あれ、ネビュラチェーンの代わりにならないかな」 紫龍にとっては幸いなことに、瞬の関心は すぐに別の可能性に移行していった。 無邪気に過ぎる瞬の前で、紫龍は 細く小さく安堵の息を漏らしたのである。 そして、氷河に小声で尋ねる。 「氷河、いいのか? おまえは、水瓶、蠍あたりを自分のものにしないとまずいんじゃないか?」 「蠍座なら、まだいい。とにかく水瓶座の黄金聖衣だけは、たとえ瞬でも俺以外の人間の手には渡せない。水瓶座の聖衣だけは死守せねば」 「二兎を追う者は一兎をも得ずと言うしな。――しかし、星矢。おまえはおまえで気楽そうにしているが、おまえこそ、射手座、双子座あたりを自分のものにしなければならないのではないか? 射手座は因縁の聖衣だし、サガには十二宮戦で倒し アベル戦で助けられと、それなりに世話になっただろう」 「双子座はメットがちょっと カッコ悪いじゃん。俺も角がついてるのがいいなー。牡牛座とか山羊座とか。牡羊座は肩が凝りそうだから、ちょっとパスしたいけど」 「そんなに角付きがいいのか、おまえたちは」 星矢と瞬の好みは、氷河と紫龍には なかなか意外なものだった。 しかし、誰がどの聖衣を望んでも拒んでも、担当聖衣の決定が くじ引きで為されるのでは どうにもならない。 すべては運――努力でも誠意でもない、くじ運にかかっているのだ。 氷河と紫龍は 改めて、恨みがましい視線を彼等の女神に捧げることになったのである。 二人の恨みのこもった視線を、アテナは涼しい顔で受けとめ、そして 受け流した。 「どの宮が誰のものになるか、それは くじを引いてみてのお楽しみ――というところね。では、乙女座と魚座は一輝に任せて、あなたたち4人でくじ引きをして、二つずつ宮を担当してもらうことにしましょう。余った二つは……そうね、年長の紫龍と氷河に 三つ担当してもらうわ。それでいいわね?」 「――わかりました」 黄金聖衣など一つあれば十分、二つも三つもいらないのだが、とにかく、師の聖衣を他人の手に渡す訳にはいかない二人は、目的の聖衣に当たる確率を上げるために、沙織の言葉に不承不承頷いた。 10分の2より10分の3の方が大きい値であることは事実なのだ。 「じゃあ、そういうことで。くじは今夜のうちに私の方で準備しておくわ。明日、アテナ神殿の玉座の間で正午かっきりに抽選会開始。いいわね」 「はーい」 黄金聖衣と その前任者である黄金聖闘士に対して いかなる義務も責任も負っていない星矢と瞬は、まるで町内会の福引大会に参加する子供の乗りである。 声を揃えて いい子のお返事をしている二人の脇で、星矢たちとは対照的に 氷河と紫龍の表情は ますます重く陰鬱なものになっていった。 |