そうして不毛な三角形を構成していた最後の一点だけが、その場に残る。 ハーデスが去り、一輝もまた去っていった。 その上、瞬への恋情に 知恵の女神から“清らか”のお墨付きを与えられたのだから、氷河は まさに得意の絶頂、大いに満悦しているのだろうという、星矢と紫龍の推測は見事に外れた。 ハーデスと一輝の姿の消えた城戸邸の庭で、星矢と紫龍の耳に飛び込んできたのは、 「俺が純愛だと。ふざけるな……!」 という、いかにも忌々しげな口調の氷河の呻き声だったのである。 アテナに対して真正面からは反論しにくいのか、氷河は 口の中で ぶつぶつと自らの純愛を否定する言葉を繰り返していた。 ハーデスや一輝の憤りや混乱、ジレンマは、無理からぬことと思うことのできた星矢も、氷河の その不平不満だけは理解できなかったのである。 「これって、氷河が腹を立てるようなことかよ? 純愛を捧げてるって褒め言葉だろ。だいいち、ハーデスが来た日、氷河は自分で言ってたじゃないか。瞬への俺の清らかな愛を侮辱するなとか何とか」 「それは、言っている氷河自身もジョークのつもりだったのではないか」 「そりゃ、確かに冗談としか思えない発言だったけどさ」 「氷河には氷河なりに、男の沽券とか 面目とか、いろいろな考えや立場があるんだろう。瞬への恋を純愛と断じられて 瞬の手を握ることもできなくなったのでは、氷河も困るだろうしな」 「だとしても――だとしたら なおさら、それのどこが清らかな純愛なんだよ」 これはアテナの 星矢は、そう疑わずにはいられなかった。 「三人とも、本当に往生際が悪いわね」 不毛な三角形をあっさり解散に追い込んだアテナは、真実を認めようとしない三人の男たちの往生際の悪さに、すっかり呆れてしまっている。 そんなアテナの様子を見ながら――それでも星矢は、アテナの理屈を受け入れ難いと思う心を捨て切れずにいた。 『氷河が 瞬に清らかな純愛を捧げている』というのは、星矢には それほどに乱暴な理屈だったのだ。 “偽”であることを証明することは誰にもできないが、誰にも受け入れられず、信じられない命題。 星矢にとって、『氷河が 瞬に清らかな純愛を捧げている』は、そういう命題だった。 が、その命題が“真”であることを信じる人間が一人、その場にはいたのである。 誰にも信じることのできない その命題を、瞬は、いかなる疑念を抱くこともなく 心の底から信じ切っているようだった。 「僕、わかってました。氷河はいつも僕の気持ちを思い遣ってくれている。夕べ 僕の部屋に来るって言ってくれたのだって――氷河は、いつまででも待ってるって言ってくれてたんです。でも、いつまでも恐がってることを僕は負い目に感じてたから、氷河は僕を楽にしてやろうって考えて、わざと星矢たちの前で あんなことを言ってくれたんです」 「お……おい、瞬……」 瞬は 平生の氷河の振舞いを見知っている星矢としては、そう思わないわけにはいかなかった。 だが。 「それは買いかぶりだ。俺が おまえとそうなりたいと思っていたことは事実だし――」 僅かに頬を上気させた氷河が、まるで自分の純愛を恥じ入るように言い訳を始めたのを見て、星矢の中には迷いが生じた。 もしかしたら氷河は 本当に瞬のために あんなことを言い出したのだったかもしれないと、星矢は ありえないことを考え始めてしまったのである。 そんなことが あるはずがないのに。 瞬に向かう氷河の恋が清らかなものであるのか、そうでないのか。 ハーデスが、一時的にとはいえ氷河の身体に憑依できたのは、氷河が清らかな人間だったからなのか、そうでないのか。 その答えに、結局 星矢は辿り着くことはできなかった。 もっとも、その命題が、星矢にとって――あるいは すべての人間にとって――“真”であっても“偽”であっても、その答えに重大な意味はなかっただろう。 瞬が“真”だと信じているのである。 他の人間の答えには、何の意味もない。 恋の命題とは、そういうものなのだ。 その夜 瞬は氷河の部屋を訪ねていったのだが、一輝やハーデスの超高性能“瞬”危機感知装置は、超高性能であるがゆえに 瞬が自発的に起こした行動を“瞬の危機”と感知することをしなかったらしい。 互いに恋し合う二人の夜は、いかなる邪魔が入ることもなく 静かに、だが情熱的に更けていった。 Fin.
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