卒業写真

〜 うかさんに捧ぐ 〜







「家庭訪問?」
「ああ、明日10時、カミュとアイザックが城戸邸ここに来るそうだ」
氷河は、そう言って、いったん言葉を区切り、瞬の瞳を覗き込んだ――というより凝視した。
瞬のどんな小さな感情の変化も見逃さないために。
が、瞬は、氷河の報告に不快の念を抱いた様子は見せなかった。
悲しむ様子も、立腹した様子も。
ただ ほんの少し驚いたように首をかしげただけで。
瞬が嫌がるようなら、氷河は どうにか工夫をして瞬がカミュと顔を会わせずに済むようにするつもりでいたのだが、その必要はないのかもしれない――と、彼は思ったのである。
思って、言葉を続ける。

「俺の普段の生活態度を見たいんだそうだ」
「氷河の普段の生活態度って?」
「つまり、毎朝6時に起床し、日々 トレーニングに励み、勉学に いそしみ、時に正義や勇気についてディスカッションしながら 仲間との友情を育んでいる俺を」
瞬が小さく吹き出す。
続けて、瞬は、くすくすと楽しそうな笑い声を洩らした。
「夜は、9時に自室に入り、その日の自分の言動を顧みて、反省すべきことを反省し、聖書の句を暗唱して、10時に就寝する俺をだ」
瞬の笑顔に安心して、氷河は ふと我にかえったのである。
我にかえって、自身の言葉に不快になってしまったのは、瞬ではなく、むしろ氷河の方だった。
なぜ自分が そんな優等生の真似事をしなければならないのか――しなければならないと考えてしまうのか――自分で自分に得心がいかない。

苦い顔になった氷河に、瞬は一言、
「素敵」
と言った。
「じゃあ、僕は明日からしばらく自分の部屋でやすむね」
瞬に そう言われて、氷河は改めて(?)気付いたのである。
教師の家庭訪問を楽しめないのは、他の誰でもない、訪問される家庭の子供なのだということに。
「カミュたちが寝入ったら、おまえの部屋に行く。おまえに寂しい思いはさせられない」
「そっちはお休みでもいいけど……わざわざシベリアから日本まで出向いてきてくれるんだから、普段の生活を見せてあげたら? 本当の普段の氷河」
優しく微笑みながら、瞬は何と恐ろしいことを言うのか。
氷河は、ぞっとして大きく全身を震わせた。

「毎日、おまえに なだめすかされて やっと9時過ぎにベッドを出て、朝食のサラダからは綺麗にピーマンを取り除き、日中のほとんどを おまえとの親睦を深めることに費やし、夜は夜で、熱心に おまえとベッドでトレーニングしている俺をか」
そんな姿は絶対に見せられない。
見せられるはずがないではないかと、氷河は視線で瞬に訴えた。
その視線にも、瞬は やわらかい微笑を返してくる。

「日中の親睦を深める相手を、カミュ先生やアイザックさんに置き換えればいいだけのことだよ。お二人とも、日本は初めてなんでしょう? 京都や富士山にでも案内してあげたら」
「京都に富士山? せめてディズニーランドにしてくれ。用があるなら、俺をシベリアなり聖域なりに呼びつければ済むことなのに、なぜ家庭訪問なんだ」
「学校での生活を見ているだけではわからないことがあるかもしれないから、家庭訪問をするんでしょう。別に 優等生の振りをしなくても――いつも通りじゃないにしても、少し くつろいだところを見せてあげた方が 嘘っぽくなくていいんじゃないかな?」
それはそうである。
瞬の言う通り、その方が嘘っぽくないし、いらぬ苦労もせずに済む。
だが それは、家庭訪問してくる教師が普通の教師だった場合のこと。
そして、家庭訪問される生徒が、その家で恋人と暮らしていない場合のことだった。

「だめだめ。こうやって 俺がおまえに膝枕してもらっているのを見るだけで、卒倒しかねない人なんだ、カミュは」
「まさか」
城戸邸ラウンジにある三人掛けのソファ。
氷河は、先程から そこで、瞬に膝枕をしてもらっていた。
ソファの端に座って瞬が熱心に鑑賞していたベラスケスの画集に焼きもちを焼いて――というより、瞬が見詰めていた、やたらと端正な面立ちのキリストの絵に焼きもちを焼いて――その画集を瞬の膝の上から押しのけ、氷河は 代わりに その場所に自分の頭を置いたのだった。
2000年も前に死んでしまった男より、今 生きて ママの側にいるボクを見てくれと駄々をこねる子供のように。

「カミュは ある意味、聖闘士の純粋培養、小宇宙の力はともかく、他のことでは 世間を知らない小学生並みと思っていた方がいい」
「小学生?」
いくら何でも それが適切な比喩だとは思えなかったのだろう。
瞬は、そんなことを言う氷河の真意を探るように、その右手で氷河の前髪を少し脇に寄せ、氷河の青い瞳を覗き込んできた。
瞬に 真意を知られるわけにはいかない氷河が、視線を横に逸らす。

「上からの指示に疑念を持たずに戦うよう教育されたシビリアンコントロール下の軍人のようなものだろう、黄金聖闘士たちの大部分は。聖域から遠く離れたアンドロメダ島にいた おまえの師ですら 聖域はおかしいと気付いていたのに、全く気付かず、気付いていても何もしようとしなかった奴等。カミュもそういう黄金聖闘士たちの中の一人だ」
氷河のその言葉を聞いた瞬が初めて、その瞳から笑みを消し去る。
穏やかではあるが、決して現況を楽しんではいない声で、瞬は、
「ずるいよ、氷河」
と、氷河を責めてきた。

「……」
瞬の言う通り、ずるいことをしている自覚があったので、氷河は黙り込むことになったのである。
こんな小細工に騙される瞬でないことは わかっていたのに――そう考えて、氷河は自身の卑劣を悔やんだ。
「僕に そう言わせないために、先にそんなこと言うなんて ずるい。僕は、そんなことで氷河の先生を責めたりしません。ちゃんと、腰を低くして、『氷河がお世話になりました』って言うよ」
「すまん……」
「氷河が謝らないで。それで言ったら、僕の先生が死んだのは、僕が当時の聖域に逆らったからで、僕にそうさせたのはアテナだ。そう考えたら、僕の先生の死の原因を作ったのはアテナだということになってしまう。それは違うでしょう」
「すまん」
「だから、氷河が謝らないでって」

小細工が通じないと悟ると、今度は ひたすら謝罪を繰り返す卑劣漢。
その対応に困ったように、瞬は小さく苦笑した。
「氷河が氷河の先生を大好きで、甘やかしたがってることは とてもよくわかったけど」
「そういうわけではないんだが……」
瞬は すべてを見透かしている。
氷河は、瞬相手に細工を弄することを諦め、正直になるしかなかった。

「あの頃の聖域の黄金聖闘士たちは、3種類に分類できる。教皇の偽りに気付いていながら あえて教皇に従っていた者。偽りを薄々察知して 聖域や教皇に距離を置いていた者。そして、自分で見聞き考えることを放棄して、教皇やアテナの指示に従い戦う黄金聖闘士としての職務を全うすることだけを考えていた者――。カミュは3番目に分類されるだろう。カミュは何というか――生真面目で、黄金聖闘士の職務に忠実で、大袈裟な比喩ではなく、素直ないい子の小学生のようなものなんだ。本当に悪気はない。おそらく……罪の意識もないだろう」
だから氷河は謝るしかなかった。

3種類に分類される黄金聖闘士たち。
そのいずれに分類されるとしても、黄金聖闘士は誰もが 瞬に恨まれ憎まれる資格を持っている。
教皇の偽りに気付いていた者、気付かずにいた者、傍観していた者――その誰もが 瞬の師の死に責任があるのだ。
黄金聖闘士たちが もう少し観察力と洞察力を備えていて、行動力があったなら、瞬の師は死なずに済んだかもしれない。
それはわかっている。
それはわかっているのだが、それでも氷河は、瞬に カミュを責めたり憎んだりしてほしくなかったのだ。
二人が出会ってしまうことで、瞬が――罪の意識のないカミュの前で、瞬だけが――苦しむ事態を、氷河は懸念していた。
その懸念は杞憂にすぎなかったようだったが。

「氷河の先生って、本当に純粋なんだね」
「何が純粋だ。おかげで俺は殺されかけた。おまえがいてくれなかったら、今頃 俺は死んでいたんだぞ」
「カミュ先生になら殺されてもいいと思ったんでしょう。氷河の負けだよ」
そう言って、瞬がまた くすくすと含み笑いを洩らす。
本気で――いかなる こだわりもなく本当に――楽しそうに見える瞬に、氷河は少々 引っかかりを覚えたのである。
氷河は左の腕を伸ばして 瞬の髪を 一房つまんで引っ張り、瞬の視線を自分の方に向けさせた。

「おまえ、さっきから妙に楽しそうだな」
「だって、僕の知らない氷河の話をいっぱい聞けそうなんだもの。そんなに素直で純粋な小学生なのなら、カミュくんは 氷河のことを瞬先生にいっぱい告げ口してくれそう」
「やめてくれっ!」
氷河は瞬先生の言葉を聞いて 悲鳴をあげた。
自分にも 少し わざとらしく聞こえるほど大袈裟に。
氷河は、瞬先生に知られたくない過去の失敗失態の類を幾つも抱えていた。
笑い話の種になりそうなことは、それこそ腐るほどあった。
それが瞬に知られることで、カミュと瞬の間に和やかな雰囲気とコミュニケーションが生まれるなら、自分はいくらでも道化になろうと思う。
瞬を傷付けずに済むのなら、カミュが責められずに済むのなら、自分が物笑いの種にされることなど、容易に受け入れられる事態だった。

黄金聖闘士たちは、瞬の師を見殺しにし、瞬から第二の故郷を奪った者たち。
氷河には、そういう意識があった。
本音を言えば、カミュには日本に来てほしくなかった。
瞬と会ってほしくなかった。
カミュの罪の意識のなさに 瞬が傷付かずに済むように、カミュが瞬に責められることがないように。
『氷河の先生を責めたりはしない』と瞬は言う。
そう言うからには、実際 瞬はカミュを責めることはしないだろう。
だが、責めることができないせいで 瞬は苦しむことになるかもしれない。
そして、カミュは、瞬に責められないことで、彼自身は意識せずに卑怯者になっていく。

氷河は本当は――本当に、二人に出会ってほしくなかった。
今からでも家庭訪問などという馬鹿げた計画を中止させる方法はないものか。
できれば、本当の理由をカミュに知らせることなく。
――そんなことばかりを考えていたので、氷河は気付かなかったのである。
今更 どんな画策をしても、その望みは絶対に叶うことはない――という事実に。

城戸邸のラウンジは、庭に面した壁一面が そのまま庭に直接出られるガラスのスライドドアになっていた。
夏も終わりかけ、やっと涼しくなり始めた夕刻の風を室内に取り込むために、強化ガラスのドアは 庭に向かって開かれている。
その透明なドアの脇に、今はまだ この場にいるはずのない者たちが立っていた。
中の一人が、こつこつとガラスを叩いて、先程からずっと 自分たちが そこにいることを氷河に知らせようとしていたようなのだが、彼は いつまで経っても来訪者たちに気付く気配を見せない氷河に業を煮やしてしまったらしい。
言葉で、彼はその事実を氷河に知らせてきた。
「氷河。カミュが卒倒しかけているぞ」
その事実を氷河に知らせてきたのは、明日 城戸邸を訪ねてくる予定のメンバーには含まれていなかった第三の男。
蠍座スコーピオンのミロだった。

ミロのその声にぎくりとして、氷河は 卒倒しかけている人より先に、瞬の顔に視線を走らせたのである。
教皇の偽りに気付いていながら あえて教皇に従っていた者。
教皇の偽りを薄々察知して 聖域や教皇に距離を置いていた者。
自分で見聞き考えることを放棄し、教皇やアテナの指示に従い戦う黄金聖闘士としての職務を全うすることだけを考えていた者。
その3つに分類される黄金聖闘士たちは、更に2種類に分けることができた。
すなわち、瞬の師の死に直接関わった者と、直接関わらなかった者の2種類に。
なぜミロがここにいるのかという疑念より先に 瞬の反応に、氷河は心を向けた。
氷河が視線を走らせた先で、瞬は慌て戸惑っていた。
「卒倒 !? まさか、本当に?」
瞬が慌て戸惑っているのは、2種類の分類項の前者に属する黄金聖闘士の登場のせいではないようだった。
そうではなく――純粋な小学生のような黄金聖闘士が本当に卒倒しかけているという事態のせい――らしい。
そうであることに心を安んじて、氷河は、改めて この事態に慌てることを始めたのである。

氷河にとっては幸いなことに(あるいは、不幸なことに?)、カミュは本当に卒倒していたわけではなく、厳しいトレーニングに明け暮れているはずの愛弟子の言語道断の たるみ振りに、言葉もなく その場に棒立ちになっているだけのようだった。
「なぜ……」
なぜ 明日到着予定だったカミュたちが今 ここにいるのか。
なぜ 来日するメンバーが二人から三人に増えたのか。
彼等はいつからそこにいて、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の会話をどこから聞いていたのか――。
身体を起こして、氷河はまず そのあたりのことを確かめようとした。
が、まるで氷河の行動を妨げようとするかのように、ミロの言い訳(?)が、先に氷河の許に届けられる。
「カミュたちが楽しそうな計画を立てていることを知って、俺もついてきてしまった」
そう言って、蠍座の黄金聖闘士は、彼の背後にある初秋の光景を振り返った。

「庭が見事なので、家人に案内を乞う前に一通り見てまわろうと こちらに足をのばしたら、おまえの姿が見えたのでな。おかげで我々は衝撃の場面の目撃者となってしまったわけだ」
「おまえが寒くないと・・・・・ だらける奴だということは知っているが、これは少々 だらけすぎなんじゃないか」
「そう目くじらを立てるな、アイザック。戦士にも休養は必要だ」
一目で不機嫌と わかる顔をしたアイザックの横で、蠍座の黄金聖闘士が そう言って笑うところを見ると、彼等は 瞬の師の死のくだりは聞いていなかったのだろう。
氷河は 胸中で安堵の息を洩らし、だが 前途多難の予感をひしひしと感じながら、彼の古い馴染みたちの方に歩み寄っていったのだった。


カミュは幸い 卒倒寸前のところで持ちこたえてくれた。
恩師に質問や教育的指導を始める隙を与えないために、氷河は その場で大声で城戸邸のメイド頭を呼んだのである。
ラウンジに飛んできた彼女は、一日早く想定外の場所に出現した来客に慌て騒いだりするようなことはしなかった。
てきぱきと、かねて用意済みの部屋に来客を案内し、玄関先に置いたままだった荷物を その部屋に運ぶ手配をする。
カミュは、完全に第三者のいるところで弟子の たるんだ生活態度を責め叱ることはできなかったらしい。
カミュと彼の連れたちは、とりあえず彼女の案内に従い、それぞれの客用寝室への移動を開始してくれたのだった。






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