おそらく氷河は、ミロを城戸邸に引き留めるために、彼の兄弟子がすぐに自分のあとを追ってくると思い込んでいたに違いなかった。
アイザックは、実際 そうしていただろう。
彼が、可愛い(?)後輩の 不謹慎極まりない振舞いを目撃した直後でさえなかったなら。
だが、彼は それを見てしまった――見せられてしまった直後だったので、その場に残るしかなかったのである。
素直な いい子だった後輩をたぶらかした ろくでもない人間の 人となりを見極めるために。
そのつもりだったのに――先にアイザックに質問を投げかけてきたのは 氷河の同性の恋人の方だった。

「氷河は 逃げたんでしょうか」
そう尋ねてくるアンドロメダ座の聖闘士が 楽しそうに笑っていることが、アイザックは大いに気に入らなかった。
見られてはならぬ人に 見られてはならぬところを見られてしまったはずの瞬に、せめて気まずげな顔をしていてほしかったのである、アイザックは。
「まあ、言い訳ができない現場を見られたわけだしな」
アテナと地上の平和を守るために戦うことを第一義としているアテナの聖闘士が その務めを怠り、あまつさえ同性同士で浮かれ戯れ合っていることを、アンドロメダ座の聖闘士は どう言い訳するつもりなのか。
言い訳できるものなら、その言い訳を とくと聞いてやろう。
瞬を半ば挑発するつもりで そう言ったアイザックに、瞬が質問を重ねてくる。

「氷河の先生とミロ……さんは親しいの? どういう お知り合いなんですか」
「……カミュは絶対零度は知っていても、世事には疎い。ミロは、蠍の生態は知らないが、世事には通じている。そういう友人関係だ」
「そして、アイザックさんは、そんな二人と氷河のおり役?」
「アイザックでいい」
瞬が言い訳を始めないことに焦れて、アイザックは その右目で瞬を睨みつけたのである。
少女と見紛うばかりに清楚可憐な面立ち、邪気の感じられない大きな瞳。
アンドロメダ座の聖闘士は確かに、どんな男でも一撃で倒すことができそうな見事な武器を持っていた。

「シベリアには、あれの母が眠っている。放っておいても いずれ帰ってくると思っていたのに、一向に帰ってこないのを不思議に思っていたんだが……。帰ってこないはずだ。こんなことになっていたとは」
挑発に乗ってこないアンドロメダ座の聖闘士。
だが、アイザックは ぜひとも彼の言い訳を聞きたかった。
そして、問い詰めてみたかった。
おまえは自分が地上の平和と安寧を守るために戦うアテナの聖闘士だという自覚があるのか。
氷河がそうであるように、自分が男子だということを知っているのか。
自分が何をしているのか わかっているのか。
自分が過ちを犯しているとは思っていないのか――。
だが、アンドロメダ座の聖闘士は、アイザックが知りたいこと聞きたいことについては 何も言わなかった。
そうする代わりに、また別の質問をぶつけてくる。

「その目、氷河を庇って傷付いたと聞きました」
「――そうだ」
短く答えて、アイザックは瞬の表情を窺った。
アンドロメダ座の聖闘士が質問を発し、こちらが答えを返す。
そういう やりとりでも、アンドロメダ座の聖闘士の人となりは知ることができる。
そう考えながら。

瞬がもし、氷河の兄弟子に、『お気の毒に』『大変でしたね』などという、通り一遍の同情を示してくるなら、自分は氷河の恋人をただの愚か者と見なしていいだろう。
もし瞬が『ごめんなさい』と言ってきたら、『氷河のことで氷河の身内に他人が謝るな』と言い、もし瞬が『ありがとう』と言ってきたら、『俺は おまえのために そんなことをしたのではない』と言ってやろう。
そう、アイザックは考えていた。
アイザックにとって氷河は、聖闘士になるための苦しい修行を何年も共にしてきた兄弟のようなもの。
二人を教え導く師と共に、家族に似た一つのコミュニティを形成する同志でもあった。
そして、瞬は、その氷河を“家族”から奪った よそ者。
アイザックにとって瞬はそういう存在だったのだ。

瞬はいったい氷河の“家族”に どんな思い上がった答えを返してくるのか。
多分に意地の悪い気持ちで、アイザックは瞬の答えを待ったのである。
そんなアイザックに、瞬は、
「羨ましい」
と呟いた。
『お気の毒に』とも『ごめんなさい』とも『ありがとう』とも言わずに。
それは、アイザックには完全に想定外の言葉だった。
完全に瞬に虚を衝かれた形になり――アイザックは片方だけ残っている右目で 一度二度 瞬きをすることになったのである。

「その場にいたら、僕が氷河を守ったのに」
それは氷河の仲間としての言葉なのか、恋人としての言葉なのか。
そのいずれであっても――それは“家族”が言う言葉ではなかった。
家族ならば『守りたい』とは思わない。
『守るのが当然』と考える。
否、“家族”は そんなことを考えもしないだろう。
考えるまでもなく、それは 自然で当たりまえのことなのだ。

アンドロメダ座の聖闘士は、自分を氷河の“家族”、あるいは “家族”より氷河に近しい者とは思っていないようだった。
つまり、自分が氷河の兄弟子や師に取って代わることを目論んでもいなければ、望んでもいないのだ。
そうであることを知って、アイザックは少し――ほんの少しだけ、瞬への対抗心や敵愾心をやわらげたのである。

「それで、その可愛い顔に傷をつけるのか? そんなことになったら、俺が氷河に恨まれそうだ」
「でも、そうして僕が負った傷に負い目を感じるだろう氷河を、ずっと僕に引きつけておくことができる。そうしようと思えば」
「……」
少女のような面立ちをした この聖闘士は、邪気のない瞳で、いったい何を言おうとしているのか。
神経を逆撫でされて、アイザックは瞬を怒鳴りつけた。
「俺がそんなことをしているというのか!」
「いいえ。そうは思いません。あなたはそんなことはしない。あなたは自分の怪我を武器に氷河の心の自由を奪うようなことは絶対にしない。だって、あなたは氷河が好きなんでしょう? 氷河が幸せでいることを願っているんでしょう? わかりますよ、僕」
「……」

アンドロメダ座の聖闘士は、氷河のために左目を失った男に釘を刺そうとしているのか、それとも本心から素直にそう信じているのか、あるいは、自分ならば決して そんなことはしないと訴えているのか――。
瞬の真意を探ろうとして、アイザックは瞬の表情を窺ったのである。
彼の目の前にあるのは、見事としか言いようのない 可愛らしい笑顔の煙幕だった。
にっこりと やわらかく微笑んで、瞬は 氷河の“家族”を見詰めている。

その笑顔に出会って、アイザックは、自分が瞬の前で ひどく緊張していたことに気付いたのである。卑劣な手段で氷河を家族から奪った泥棒の手から 氷河を取り戻すのだと、瞬の前で 自分が尋常でなく気負っていたことに。
一見 優しく やわらかに見える瞬の微笑。
どんな敵意も害意もたたえていないように見える瞬の瞳。
それは優しすぎて、温かすぎて、得体が知れなかった。
というより、瞬の表情の優しさも 温かさも 邪気のなさも 本物なのだろうことが、アイザックには癪に思えて仕様がなかったのである。
瞬は気負いがなく余裕に満ちていて、自分はそうではないと思わざるを得ないことが、妙な敗北感をアイザックの胸に運んできた。






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