俺が日本の高校に編入することになったのは、要するに、俺の後輩というか 弟分というかが、音信不通になってしまったからだった。 後輩の名は、氷河。 ロシア生まれのロシア育ち――より正確に言うなら、シベリア生まれのシベリア育ちで、歳は多分、17か18。 母親譲りの金髪碧眼の持ち主で、だから、俺はずっと 氷河を生粋のロシア人だと思っていた。 ロシア人でなくても、生粋のコーカソイドだと思っていた。 が、どうやら そうではなかったらしい――もとい、そうではなかったのかもしれない。 ある日、日本から ベンゴシというのがやってきて、氷河には城戸某という日本人の血が入っているから、日本に来て、その城戸某とやらの遺産を受け取るようにと言い出したせいで、俺は そのあたりのことが よくわからなくなってしまったんだ。 ちなみに、城戸某という爺さんは、氷河の伯曾祖父だか叔曾祖父だかに当たる人物だという話だった。 爺さん当人は家族を持たなかったとかで、だから、とにかく自分の血縁全員に 自分の莫大な遺産を分配するよう遺言を残したんだそうだ。 相当額の相続税を払ったあとに残る、何百億だかの遺産。 それを誰か一人の血縁に譲るのは、その人間にとってよろしくない、危険だと、その爺さんは考えたんだとか。 俺には、よく わからない思考だな。 それで相続争いが起こるっていうのなら話は別だが、そうでないなら 誰か一人に譲っちまった方が面倒がなくていいだろうに。 ま、他人が自分の遺産をどうしようが、それは そいつの勝手だが。 何やら深い事情があって、氷河の母親は、氷河に氷河の父親が何者なのかを知らせていなかったらしい。 それで、氷河は その弁護士とやらに、『人違いだ』と言うことができなかった。 母親から何も聞いていなかったから、『人違いじゃない』と言うこともできなかったんだがな。 奴は、面倒だから そんなものはいらないと言ったんだが、その弁護士は やたらと仕事熱心な男で、意地でも城戸某の遺産の一部を氷河に受け取らせると言い張った。 多分、氷河を日本に連れていって遺産を受け取らせるのと 受け取らせないのとでは、弁護士野郎が受け取れる報酬額が違ってくることになっていたんだろう。 『遺産を相続するのは、相続人の義務だ』だの『遺産を相続するのは、相続人の権利だ』だの『せっかくの遺産を相続放棄すると、他に幾人かいる相続人たちを利するだけだ』だの『相続放棄は、城戸翁の意思をないがしろにする行為だ』だの『ちょっと日本に来るだけで、概算10億円の金をもらえるのに、そうしないなんて馬鹿か阿呆の仕業だ』だのと、執拗に繰り返し わめき立てて、弁護士野郎は氷河をうんざりさせた。 氷河は、それでも面倒だと言っていたんだ。 なにしろ、遺産相続の条件が『(多額の遺産を馬鹿なことに使われるのは不本意だから)馬鹿でないことを証明するため、日本の旧帝大のいずれかに入学すること』だったから。 学校とか勉強とか団体行動、集団生活――氷河は、そういうものが大嫌いな男だった。 その氷河が、日本に行く決意をしたのは、日本には奴の母親の写真だの肖像画だの愛用の品々だのがあって、相続する遺産の中に それらを含むことができると言われたから。 氷河は、金は欲しくなかったが、母親に関わる品は欲しかった。 氷河は、極めつきのマザコンなんだ。 それを手に入れたら さっさと帰ってくると言って、氷河は日本に向かった。 ところが、母親の形見の品を手に入れたら すぐに帰ってくると言って渡日した氷河が、突如 方針転換。 何を とち狂ったか、日本の高校に通うことにしたと言ってきやがった。 勉強嫌い、学校嫌い、集団生活・団体行動が大嫌いな、あの氷河がだ。 ロシアでの義務教育を終え、これで同年代のガキ共との集団生活から解放されたと歓喜し、シベリアの大雪原での自由を謳歌していた あの氷河が、日本なんて小さな島国の 人間がひしめき合っている都会にある高校で、再び集団生活の中に我が身を投じると言い出しやがったんだ。 まあ、奴が嫌いなのは、勉強、学校、集団生活や団体行動というより、決められた時刻に 決められた場所で 決められた知識を 決められた方法で身につけることだったのかもしれないが。 氷河は、決して怠け者なわけではなく、自分が知りたいことや 興味あることに関しては、貪欲に知識を貪る奴だった。 何はともあれ、勉強嫌い学校嫌いの氷河が、日本の学校での押しつけ教育、詰め込み教育を受けることを決めたのは、厳然たる事実。 いったい日本で氷河に どんな気持ちの変化が生じたのかと、当然のことながら 俺は疑うことになった。 そんな俺に、 「女だな」 と言ったのはカミュだった。 「日本で 女ができたんだ。それで、氷河は日本を離れられなくなった」 と。 あの氷河が女? と、俺は思ったさ。 女なんて そんな、勉強や学校より面倒なものに、あの面倒くさがりの氷河が興味を持つなんてことがあるだろうかと。 だが、俺はすぐに その考えを放棄した。 『女』と言われたから、俺は まさかと思ったんだ。 『女』を『人間』と言い換えれば、それは大いにあり得ることだと俺は思った。 この世に生を受けてから日本に行くまで、氷河が最も執着していたのは 奴の母親だった。 氷河は、人間には――自分が好きになった人間には、とことん こだわり、異様なほど固執する男なんだ。 それはあり得ないことじゃない。 ちなみに、カミュというのは、親のない俺や氷河を引き取って育ててくれた、いわば俺たちの親代わり。 保護者というか、師匠というか、そういう立場の人間だ。 生まれはフランスで、親が繊維業で財を成した、その業界の超大物。 しかし、家業に全く興味を持てなかったカミュは、親が亡くなると その事業を丸ごと人様に売り渡し、その金でシベリアに広大な土地を購入した。 そして、そこを私的な自然保護区にしてしまったんだ。 カミュは、人工を排した自然な生活こそが 人間の生きる道と固く信じている、ある種の変人、そして偏屈。 座右の銘は『人間よ、自然に帰れ』。 学校嫌い、勉強嫌い、集団生活嫌い、団体行動嫌いの氷河には、カミュのそういう自然主義が性に合っていたんだろう。 母親を亡くして一人きりになった氷河を引き取ろうというカミュの申し出は、奴にとっては渡りに船のことだったのかもしれない。 まあ、かくいう俺も、個人主義者の自由主義者で束縛嫌い。 そして、親無し。 いろんな条件が重なって、氷河同様 カミュの世話になっている。 自然の中で 自然と共に 自然に生きる生活を実戦しようとするカミュに引き取られて、もう6年になるか。 カミュの理想の生活は、イヌイットのそれ。 それも、500年くらい昔のイヌイットのそれだ。 一言で言えば、それは自然に同化して生きること。 俺たちはセイウチやホッキョクグマを生きるのに必要なだけ狩って、その肉を食料にし、その皮や骨で日常生活に必要なものを作る。 あるいは、その獲物を近くの村に持っていって、野菜や穀物、衣類・雑貨の類を物々交換で手に入れる。 今時は、イヌイットだって、モーター付きのソリやボートで猟場を移動し、銃や銛、槍を使って猟をするんだが、カミュは銃は もちろん、銛や槍さえ自然に反すると言い張って、とにかく人工のものを排除した狩りを推奨した。 つまりカミュは、俺たちに素手で狩りをすることを要求したんだ。 動物だって、武器を持っていないんだから、こちらも丸腰で対峙するのが礼儀。 『1対1、素手 対 素手の時にだけ、狩りで動物の命を奪うことは、人間の傲慢にならない』というのがカミュの主張。 本音を言えば、人間が知恵を使って作った武器は、クマの爪やセイウチの牙同様、“自然”なものだと、俺は思うんだがな。 ともあれ、そんなカミュの許で、俺と氷河は、そりゃあ苛酷な修行を課せられた。 親や帰る家があったら、早いうちに鬼師匠の許から逃げ出していただろうが、俺と氷河には そんなものはなかった。 氷河は、学校に行かされたり 会社務めをさせられるよりは クマとの格闘の方が はるかにましと考えていたらしくて、結構 素直にカミュの強いる無茶苦茶な修行に取り組んでいたがな。 個体数の減少が危惧されているホッキョクグマを狩ったりしていいんだろうかと、俺は 時々 自然生態系のことを案じていたんだが、それらの狩りや猟は カミュの私有地内で行われてるから、警察や自然保護団体が抗議に来たことはない。 素手でシロクマを倒し、素手で成獣のセイウチを倒せる人間なんて、確かな根拠があるわけじゃないが、この地球上に3、4人しかいないだろう。 つまり、俺と氷河とカミュの他に、せいぜい1人いるかいないかだ、おそらく。 そこまで育てあげた弟子が、シロクマもセイウチもいない日本で生活するなんて、宝の持ち腐れだ。 ――と、カミュは言った。 氷河は このシベリアでこそ、生きて存在する価値のある男だと。 そして、何としても氷河をシベリアに連れ戻さなければならないと考えたらしい。 カミュは、手紙、電報、電話を駆使し、ついには電子メールだのSNSだのまでマスターして、氷河にシベリアに帰ってくるよう促した。 あの文明嫌いのカミュがだ。 最初のうち、氷河は、そんなカミュに、『そのうち帰る』『高校を卒業したら帰る』『元気にしているから、俺のことは気にするな』と返事をよこしていたんだが、やがて、カミュのしつこさに辟易したのか、カミュの“帰れコール”をシカトするようになった。 カミュも、そうなると後には引けない。 育ててやった恩を仇で返されたようなもんだし、氷河を文明に取られた格好になって、自分の信念と誇りを傷付けられたように感じたところもあったのかもしれない。 ともあれ、そういう経緯で、俺に、『氷河をシベリアに連れ戻せ』という カミュからの命令が下ったんだ。 日本からやってきた あの弁護士は、氷河に遺産相続させるための最大の障害がカミュの自然回帰願望だということに気付いていた。 だからなのか、自分の弁護士事務所が記された名刺だけをカミュに渡し、日本での氷河の滞在場所を俺たちに知らせないまま、氷河を日本に連れていった。 普通に連れ戻しに行ったら、あの弁護士は、氷河の居場所も教えてくれないだろう。 そう考えたカミュは、『氷河の兄弟子を 氷河と共に氷河と同じ学校で学ばせたいから、氷河の通っている高校を教えてくれ』と言って、その情報を弁護士から聞き出した。 カミュの理想なんて到底理解できない文明国の弁護士は、カミュの宗旨替えを当然のことだと――それこそ“自然”なことだと思ったんだろう。 弁護士先生は、カミュの策略にはまり、あっさり氷河の通う高校の名と所在地を吐いてくれたというわけだ。 『私が このシベリアに所有する400平方キロメートルの土地を受け継ぐのはおまえたち二人だ。必ず氷河を連れ戻せ』 そう言って、カミュは俺を日本に送り込んだ。 俺視点で言えば、『送り込まされた』だ。 本音を言えば、俺は 全然気が進まなかったんだ。 日本に行くだけならまだしも、氷河や弁護士センセイを欺くために学校に入学して勉強する振りをするなんて、それこそ面倒の極み、愚の骨頂。 だが、その一方で 俺は、氷河の女というのに興味があったんだ。 あのマザコンが、いったいどんな女に執着して、学校での お勉強なんて苦行に耐える気になったのか、滅茶苦茶 知りたいじゃないか。 言ってみれば、野次馬根性の興味本位。 俺は、カミュの至上命令を遂行するため、極東の島国に向かった。 |