「氷河。城戸邸のお米がなくなるから、氷河に おにぎり作りをやめさせてくれって、食糧庫管理の人から頼まれて来たんだけど……」 苦労は、人に ひけらかすものではない。 湖に浮かぶ白鳥は 人知れず水を掻く。 氷河のおにぎり修行は 極秘裏に進められていたのだが、妖怪二口女を嫁に迎えた家のように 食料貯蔵庫の米がなくなっていくせいで、その修行(所業 あるいは 悪行ともいう)は、いつのまにか余人の知るところとなっていたらしい。 その日の早朝、時刻は午前4時半。 氷河が修行をしている城戸邸厨房にやってきたのは、氷河を苛酷な修行に駆り立てることになった当の本人、アンドロメダ座の聖闘士その人だった。 その背後には星矢と紫龍がいて、調理台の上に ずらりと並んでいる氷河手製のおにぎりの上に おぞましいものを見るような視線を投じている。 星の子学園の子供たちから氷河の修行の成果についての話を聞いていた彼等が、そこに絶望の姿を見ていたとしても、それは自然なことだったろう。 もっとも、星矢と紫龍は、氷河の修行の訳を知っていたので、展開によっては彼の弁護にまわらなければなるまいと考えて、瞬に同行してきたのだったのだが。 いったい なぜ氷河は 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たちにも何も言わず、これほど大量のおにぎりを作っているのか。 その理由がわからず、白い三角形の山並みに 唖然呆然としている瞬に気付いた星矢と紫龍は、早速 調停作業に取りかかった。 「そんな 呆れたような顔はしないでいてやれよ。おまえの奇跡のおにぎりを食っちまった人間が、同じように美味いおにぎりを作れるようになりたいって思うのは、結構 自然なことじゃないか? 努力の甲斐あって、なかなか美味そうなおにぎりを作れるようにはなってきてるみたいだし」 「うむ。実に美しい三角形、これは見事だ。氷河も やればできるではないか」 そんなことを言いながら、星矢が、そして紫龍が、氷河の作ったおにぎりを一つ 手に取り、一瞬の ためらいの後、一口ぱくりと頬張る。 そして、彼等は絶句した。 それは、星の子学園の子供たちが瞬のおにぎりを食べた時の反応と 全く同じものだった。 だから、瞬は誤解してしまったのかもしれない。 瞬は――瞬も、星矢たちに倣って 氷河のおにぎりを一つ手に取り、ぱくりと一口。 星矢と紫龍は、氷河のおにぎりの破壊力に打ちのめされて 口もきけない状態になっていたため、瞬の挑戦を止めることができなかった。 そして、氷河の制止は間に合わなかった。 かくして。 瞬もまた星矢たち同様、沈黙の淵に沈むことになってしまったのである。 星の子学園の子供たちから おおよそのところは聞いていたのだが、氷河のおにぎりの不味さが まさかこれほど激烈なものだったとは。 それでも なんとか 氷河のおにぎりの衝撃から立ち直った星矢と紫龍は、瞬の沈黙を目の当たりにし、おにぎりを作った氷河当人より慌ててしまったのである。 「しゅ……瞬、大丈夫か? そ……そりゃ、自分の奇跡のおにぎりを食べ慣れたおまえには、氷河のおにぎりの不味さは衝撃的すぎるだろうけど、これでも氷河は 氷河なりに頑張ったわけで――」 「星矢の言う通りだ。俺は常々、アメリカ的成果主義というものは、人間から人間らしさを奪う感心できない制度だと思っていたんだ。成果のみを重視し、努力の価値を認めない やり方は、人間から向上心を奪い、無気力人間を生むことになるのではないかと――」 星矢と紫龍の懸命の弁護。 それは、瞬の耳にも心にも届かなかったらしい。 氷河のおにぎりを食べた瞬の瞳から、涙の雫が一粒 ぽろりと零れ落ちる。 「な……泣くほど不味いのか……」 星矢と紫龍と氷河の声が見事に重なる。 仲間たちの絶望の三重唱に、瞬は、 「おいしい……」 という一言を返してきた。 「うん……うん、そうだよな。おまえには泣くほどショックだろうな。俺にだって信じられねーぜ。まさか この世に、こんな不味い おにぎりがあるなんて……って、なにーっ !? 」 星矢の雄叫び、紫龍の絶句。 「いや、これが美味いなんて、そんなはずは――」 『おまえが それを言うな』と 頭を ど突きたくなるような、氷河の不思議そうな呟き。 氷河のおにぎりの不味さに衝撃を受け、おそらく瞬は口にする言葉を間違えたのだ。 氷河のおにぎりは それほどまでに瞬の味覚に打撃を与えたのだ――と 星矢は思ったのだが、事実は そうではなかったらしい。 瞬の口は――舌は――あくまでも その言葉を生み続けた。 「おいしい。兄さんの おにぎりみたい。ううん、それ以上……」 『おいしい』という冗談のような言葉だけではない。 瞬の瞳は なおも ぽろぽろと幾粒もの(感動の!)涙を生み続け、瞬の言葉の意味を理解できずにいる瞬の仲間たちを、大いに戸惑わせてくれたのである。 「やだ。ごめんなさい。なんだか、すごく懐かしくって……」 自分の涙が仲間たちを困惑させていると思ったのか(それは決して誤解ではなかったのだが)、瞬が 恥ずかしそうに自分の頬の上の涙の雫を拭う。 「懐かしい……とは――」 瞬に問う氷河の声は かすれていた。 氷河には、瞬の感動の(?)涙の訳がわからなかった。 自分で食べても、お世辞にも美味とは言い難いおにぎりである。 これが、あの奇跡のおにぎりを作れる瞬が 感激して涙を流すほど美味いおにぎりだとは、氷河にはどうしても思うことができなかった。 もちろん、それは 星矢と紫龍も同様である。 もしかしたら氷河の握ったおにぎりには、じっくり味わわなければ わからないような美味が隠れているのだろうかと思いはするのだが、 「これを おにぎりっていうのは、おにぎりへの冒涜だろ。まるで凍った糊の塊りか 野球の硬球を食ってるみたいだったぞ。いや、砲丸投げの砲丸だ。二口目を食う勇気が持てない……」 という理由で、真実を確認する気になれないのだ。 瞬の味覚が狂っていることは考えられなかった。 狂った味覚の持ち主が、あの奇跡のおにぎりを作れるわけがない。 瞬の舌は、『おいしい』ということが どんなことなのかを、正しく知っているはずなのだ。 「なんで、これが美味いんだよ、瞬の奴……」 いくら頭をひねっても、納得できる答えに行き着けない星矢に、一つの可能性を提示してきたのは、某龍座の聖闘士だった。 「俺が思うに……もしかすると、一輝の握るおにぎりも硬かったのではないか? 力の加減など考えず、瞬のために、一輝は渾身の力を込めて おにぎりを握ったんだ、おそらく」 「あ……? ああ、そーいや、氷河の奴、瞬がおにぎりの作り方レクチャーしてた時、ぼうっとしてたもんな。あの時、氷河は瞬の言うこと何も聞いてなかったんだ。で、ガキの頃の一輝と同じように渾身の力で 握って――。ガキの頃の一輝のおにぎり以上ってことは、氷河のおにぎりは 一輝が渾身の力で握ったおにぎりより硬いってことか」 「まあ、ガキの頃の一輝より、今の氷河の方が 力はあるだろうし」 「おまけに、愛もたっぷりだもんな」 「うむ。味覚というものは 人それぞれ、『おいしい』と感じる味も 人それぞれだからな。納豆、梅干し、ゴーヤにレバー。好き嫌いの分かれる食べ物は いくらでもある」 「それはわかるけどさー……」 それはわかるのだが、氷河のおにぎりは それ以前の問題を抱えている――と、星矢は思わずにいられなかったのである。 二口目を食べることに恐怖を感じるという状況は、どう考えても味以前の問題だろう。 しかし、瞬には それは欠点でも難点でも瑕疵でもないらしい。 瞬は すっかり氷河のおにぎりの虜になってしまったようだった。 「こんなに おいしいおにぎりを作れるなんて、氷河は すごく豊かで深い心の持ち主なんだね。すごく愛情深くて、優しくて……素敵」 「い……いや、それほどでも……」 「僕、一生、氷河の作ったおにぎりを食べていたい。氷河(のおにぎり)のない人生なんて、僕にはもう考えられないよ……!」 よもや まさかの瞬からの告白。 うっとりと 美しい夢でも見ているような瞬の眼差し。 兄が作るおにぎり以上の おにぎりに出会って、瞬は一瞬で恋に落ちてしまったようだった。 瞬の熱い視線は、氷河ではなく、氷河の握ったおにぎりの上に注がれていたのだが、氷河にはそれは 大した問題ではなかったらしい。 何はともあれ、彼(のおにぎり)が、つらく厳しい修行の末に 瞬の心を掴んだという事実に変わりはないのだから。 努力が結果に結びつかないことは 人の心に嘆きを運び、努力せずに成功を手に入れることは 人の心に空しさを運んでくる。 精一杯の努力をして その努力が報われることほど、人間の心を高揚させ歓喜させることはない。 氷河の心は今、その高揚と歓喜の ただ中にあったのだ。 到底 実ることがあるとは思えなかった氷河の恋。 不毛の大地に 空しく種を蒔き続けているようだった、氷河のおにぎり修行。 しかし、その恋は実った――実ってしまったのだ。 では、愛が――愛がありさえすれば、戦いで荒廃した大地に希望の花を咲かせることも可能なのだろう。 愛が――愛だけが、この地上を実りある世界にすることができるのだ。 「最後にものを言うのは、やっぱ 愛なんだなー」 壁に投げつけたら、そこに穴をあけることもできそうな氷河のおにぎりを しみじみと見詰めながら、星矢は 改めて 愛の偉大さに感じ入ったのだった。 Fin.
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