The Rule of Life

〜 りらさんに捧ぐ 〜







「生活指導 !? 生活指導 !? 生活指導だとっ !? 」
氷河が“生活指導”なる言葉を、クエスチョンマーク 及び エクスクラメーションマーク付きで、3度も繰り返したのは、彼が その言葉の意味を知らなかったからではなかった。
意味は知っていた。
『日常生活の基本である習慣や態度を身につけ、生活上の問題を自分で解決する能力を養うために、(主に大人が)(主に子供を)指導・助言すること』である。
もちろん、氷河は、“生活指導”なる言葉の意味を知っていた。
氷河は、意味を問うためではなく、異議を唱えるために、その言葉を3度も繰り返したのだ。

指導を受ける“子供”が青銅聖闘士で、指導する“大人”がカノン。
アテナは そう言ったのである。
季節は秋。
場所は城戸邸応接室。
季節に ふさわしく、極めて涼しい顔で。

なぜ 地上の平和を守るために命がけで戦ってきた青銅聖闘士たちが、地上の平和を乱し 人間世界を滅ぼすことを画策した 正真正銘の悪党の指導を受けなければならないのか。
なぜ アテナは、そんな理に適っていないことを 彼女の聖闘士たちに指示することができるのか。
氷河が異議を唱えることは、ある意味では極めて正当かつ妥当な行為だったろう。

しかし、アテナは 氷河の異議を受け付けなかった。
「ええ、生活指導。氷河。あなたがカノンの生活指導を受けるのが どうしても嫌だというのなら、自分の力でもって カノンの指導に抵抗し、拒否しなさい。“力ある者が正義”というのは、考えようによっては、綺麗事ではない現実の日常生活における基本ルール。カノンの生活指導が あなたの生活上の支障になるというのなら、その支障を力づくで退けるのも、生活上の問題を自分で解決する行為と言えるでしょうから、もし あなたに そうすることができたなら、あなたにはカノンの生活指導を受ける必要がないと、私も認めてあげましょう」
「なに……?」

力ある者が正義。
よりにもよって アテナが それを肯定するようなことを口にするとは。
アテナは、戦う術と力を持たず 邪悪な強者に虐げられている善良な弱者を救うために、邪悪と戦っているのではなかったのか。
そのために、彼女は 彼女の聖闘士たちに苛酷な戦いを求めているのではなかったのか。
想定外のアテナの言葉に、氷河は一瞬 呆け、そして すぐに我にかえったのである。
アテナの考えがどうであれ、氷河には、氷河なりの――氷河が道理と信じ、正当と信じ、正義と信じる世界の ありようがあったのだ。

「沙織さんが 力で解決していいというのなら、やってやろうじゃないか。力づくで、カノンを撃退する。俺たちがカノンを指導するというのなら ともかく、邪悪で卑劣な反逆者で悪党の前科者なんかに 俺たちが指導を受けるなんて、冗談じゃない! 俺たちよりも年上だから その権利がカノンにあるというのなら、それは間違いだ。カノンなど、無駄に歳を食っただけの、ただのおっさんだ。カノンに比べたら、俺たちの方が よほど立派な人格者だ!」
氷河の強硬な反抗に会っても、アテナは涼しい顔を崩さない。
そして、畏れ多くも知恵と戦いのアテナに、たかがキグナス氷河の分際で(?)、堂々と自分を人格者だと わめき立てる氷河の厚顔に、彼の仲間たちは 呆れ返っていた。

「おまえのどこが人格者だよ。カノンの指導内容が間違ってると思ったら、その間違いを指摘して、是正を求めればいいだけのことだろ。いいじゃん。カノンの生活指導。どんな指導をしてくれるのか、滅茶苦茶 面白そうだし、実際、おまえの日常生活は乱れまくってるんだし」
「うむ。よしんば、カノンが他者に生活指導を行なえるほどの人格者でなかったとしてもだな。指導・教育という行為には、他者を指導することによって 指導者自身も成長するという側面もある。カノンの生活指導というのは、なかなか興味深い試みだと思うぞ」
「貴様等は 正気で そんなことを言っているのかーっ!」

星矢と紫龍は、完全に この事態を面白がっている。
ショッカーの首領が仮面ライダーに平和の意義を説くような、悪代官が水戸黄門に正義の意味を説くような、そんな馬鹿げた事態を甘受できるらしい星矢たちの軽薄が、氷河には信じられなかった。
「俺の生活のどこが乱れているというんだ! 俺の日常は、愛という絶対のルールに基いて、清く正しく美しく営まれている」
「おまえが、毎晩 熱心に 瞬への お勤めに励んでるのは知ってるけどさあ」
気色ばんで 自らの愛の生活を誇らしげに言い立てる氷河に、星矢が軽蔑の視線を投げる。
それを 他のどんなことにも増して気高く尊い行為だと信じている氷河は、星矢の その視線を、熱愛する恋人を持たない男の僻みと決めつけて、華麗に無視した。
他のことなら いざ知らず、この件に関して 星矢がどう思っていようと、それは 氷河にはどうでもいいことだったのである。
大事なのは、星矢がどう思っているかではなく、瞬がどう思っているのか――なのだ。

「瞬、おまえは嫌だな? カノンは、アテナに反逆し、ポセイドンを騙し 利用して、地上を滅ぼそうとした大悪党だぞ。そんな最低最悪の悪党の分際で、偉そうに おまえに説教するような、厚顔無恥な男なんだ!」
氷河が意地でもカノンの生活指導を受けたくないと思う原因は、実は そこにあった。
その件さえなければ、氷河は、あの・・カミュの指導をさえ 素直に受けることのできた男。
人格者でなくても 目上の者を敬うことはできる男なのである。
その点に限れば、氷河は、師の仇である(一応 目上の)黄金聖闘士を倒した瞬より、“年長者・目上の者を敬う”儒教精神に忠実な男だった。

しかし、瞬は、同じ儒家思想でも、孟子の唱えた性善説の信奉者。
つまり、瞬は、氷河ほど長幼の序を重んじてはいなかったが、氷河より はるかに人の善意を信じている人間だったのだ。
「それは……でも、カノンさんは、自分の過ちを反省して、更生して、今は僕たちと同じように 地上の平和のために戦う同志なんだよ。僕たちは、いつまでも そんな過去のことに囚われていないで、彼を信じてあげるべきだと思うんだ。それに――」
「それに、何だ」
瞬に問い返す氷河の声が苛立っているのは、氷河は決して カノンが犯した過去の悪事に囚われているわけではなかったからだった。
氷河が こだわっているのは、カノンの過去の悪事ではなく、考えようによっては 善行といっていい行為。
前科者の分際で 偉そうに瞬に説教を垂れたことだったのだ。

瞬が、少し言いにくそうに、『それに』の続きを口にする。
「ロシアでは アルコール度数10パーセント以下の飲み物はソフトドリンク扱いだって言って、氷河、時々 ビールやシードルを飲んだりしてるでしょう。そういうのって、よくないことだと思うんだ。ここは日本で、日本の現行法では、20歳未満の未成年の飲酒は禁じられているんだから……」
「瞬! カノンは、自分のしたことを棚に上げ、したり顔で おまえに説教を垂れるなんてことをしてのけた、恐るべき恥知らずなんだぞ!」
自身の犯罪行為を棚に上げるために、氷河が瞬の告発を大声で遮る。
が、あいにく 瞬は、氷河ほどには長幼の序を重んじない人間。
自分が正しいと思うことは、年上の仲間に対しても 臆することなく主張していく人間だった。

「氷河。人間は みんな、不完全な存在なんだよ。完全な人間なんて いない。完全な人間でなければ、人を指導できないなんてことを言っていたら、人は誰も人を指導することができなくなる。人間には、自分のことを棚に上げて 人を導かなきゃならないこともあると思うよ」
「瞬! おまえは、俺たちが こんな男に指導されてもいいというのかっ!」
堪忍袋の緒が切れかかっている状態で、氷河が応接室のソファに腰掛けているカノンを、びしっと指で指し示す。
失礼千万な振舞いだが、瞬は、氷河の その失礼千万な振舞いに 動揺すると同時に、胸中で 安堵もすることになったのである。
先程から瞬は、『もしかしたら、氷河は、この場にカノンがいることに気付いていないのだろうか』と、それを案じていたのだ。
それは視野狭窄というより視野欠損、もしくは 心因性視力障害の症状である。
幸い(?)、氷河は そんな病に侵されてはいないようだった。

「氷河……僕は氷河のことが心配なの。未成年の飲酒が法律で禁じられているのは、それが人の心身の健全を損なう可能性がある行為だからでしょう?」
「う……」
仲間でもあり恋人でもある男の心身を 心から案じているらしい瞬の切なげな眼差しに出会った氷河が、言葉に詰まる。
これで勝負はついたと判断したのだろうアテナが、高らかに白鳥座の聖闘士の敗北を宣言した。

「氷河。自分の負けを潔く認めなさい。力ある者が正義。力というのは、腕力や武力だけではないのよ。あなた、まさか、自分が瞬に勝てるなんて思ってはいないでしょうね」
「……」
そんな思い上がりの心は、もちろん、氷河の中には存在していなかった。
力ある者が正義――力こそ正義。
(瞬の)愛の力に勝る力の存在など、氷河は考えたこともなかったから。

不承不承 自らの敗北を認めた氷河に 勝利の笑みを投げ、沙織は掛けていたスツールから立ち上がった。
「じゃあ、瞬。あとのことは お願いね」
「はい」
グラード財団総帥にして、地上の平和を守る女神アテナ。
二足の草鞋を履いている彼女は、相変わらず多忙らしい。
多忙な人間ほど、結論に至らず いつまでも だらだら続くミーティングを嫌い、事前の根回しを怠らないもの。
向後のことを瞬に託し、颯爽と応接室を出ていく沙織を見て、氷河は初めて ある可能性に思い至ったのである。

ある可能性とは、つまり、自分はアテナに嵌められたのではないかということ。
もしかしたら、アテナは、白鳥座の聖闘士に“ソフトドリンク”の摂取をやめさせるために、事前に瞬と話をつけていたのではないだろうか。
その可能性に、氷河は今になって思い至ったのである。
そんなことに、今更 思い至っても、すべては 後の祭りだったが。
事は、既に決してしまったのだ。
そして、この極めて不愉快な状況に投げ込まれた氷河の怒りは、白鳥座の聖闘士を嵌めた(のかもしれない)瞬やアテナではなく、カノンに向かうことになった。






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