「在原業平って、確か――」
「3733人」
「そう。3733人の女性と親密な仲になったって。詳しいね」
「光源氏と同じだ。嫌いすぎて、覚えてしまった」

氷河は『源氏物語』から『伊勢物語』に行ったらしいが、実際の時系列は逆である。
『伊勢物語』の主人公と見なされている在原業平は、光源氏のモデル(の一人)と言われている人物。
まず、在原業平がいて、光源氏が生まれたのだ。
業平の父は平城天皇の第一皇子である阿保親王。母は桓武天皇の皇女である伊都内親王。
在原業平は、平安京への遷都を行なった桓武天皇の孫にあたり、高貴な身分の皇子なのだが、皇統が別系統である嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、生まれて間もなく皇席を離れ、臣籍降下した。
境遇が、光源氏と全く同じなのである。
大変な美貌の持ち主で、非常に女性にもてた点も光源氏と同じ。
在原業平は、出世しなかった光源氏。栄華の時を知らない光源氏なのだ。
光源氏が嫌いな氷河は、当然、彼のモデルである在原業平も嫌悪する。

「3733人の恋人なんて、話半分にしても、ものすごい数だよね。30人なら恋多き人で済むけど、恋人が3000人超となると、恋自体が もう苦行としか思えないよ。光源氏は、母なるものを求めて女性遍歴を続けていたけど、業平は 何を探していたんだろうね」
そして、彼は、その“何か”を見付け出すことができたのか。
“嫌いすぎて覚えてしまった”氷河なら、業平の探し物を知っているかもしれない。
――という瞬の期待は、見事に外れた。
氷河は 業平を“知って”いるだけで、彼の心を深く考察したことはないらしい。
『嫌いな男の心情など 考えたくもない』というのが、氷河の考えにして価値観なのだろう。

「ふん。業平は 案外、自分が何を探しているのか、自分でもわかっていなかったのかもしれないぞ。むしろ、探すべきものを探していたのかもしれない」
「自分が何を探しているのかも わかっていないなんて、目的のものを探し当てられないことより つらそう」
“もののあわれ”を主題とした源氏物語と その主人公より、業平の人生は 根のない哀れなものだったのだろうか。
1200年も前に生き、そして既に亡くなっている人に、瞬は心から同情した。
自分の嫌いな男に瞬が同情するのが気に入らなかったのか、氷河が平安一の色男を腐してくる。

「俺は、業平のような阿呆と違って、自分が欲しいものが何なのかを ちゃんとわかっているし、それを見付けて、手に入れた」
そう言って、氷河は意味ありげな視線を瞬に投げてきた。
氷河は まもなく家を出て 職場に向かわなければならない。
そろそろ お片付けを終えたナターシャも、『パパ、行ってらっしゃーイ。お仕事、頑張ってネー』を言うために、リビングにやってくるだろう。
流し目など送りつけられても、瞬としては、
「うん。地上の平和は、生涯をかけて追い求めるに値するものだよね」
という言葉でもって、氷河からの贈り物の受け取りを拒否することしかできなかったのである。

そんな言葉で 流し目を跳ね返され、氷河が むっとする。
が、時計で時刻を確かめて、それも仕方のないことと思い直したのか、氷河は 話を彼の店のアルバイトに戻した。
「グラスを切らずに磨けるようになったんだ。雑な掃除やフルーツのカッティングくらいのことなら、教育と 当人の努力でどうにかなるかもしれないが――」
もちろん オレンジを切るくらいのことは、教育と努力で できるようになるだろう。
聖闘士になるための修行の過酷と困難に比べたら、それくらいのことはシュラには何でもないこと(のはず)である。

「肉体年齢は未成年で、見た目は俺より老けていて、23歳までの記憶がある。シュラは、その存在自体が ややこしすぎるんだ。未成年が酒類を扱う店でバイトをしてはならないということはないが、全く問題がないというわけでもない。シュラ自身には、“使えない”という大問題以外に 問題はないんだが、石頭の紫龍が『バーでのバイトなど やめさせろ』と、うるさくてかなわん。クロノスも考え無しなことをしてくれたもんだ。せめて、“時を移動するのは20歳以上の聖闘士”というルールでも決めておいてくれれば、こんな面倒なことにはならなかったのに」
「未成年タイムワープ禁止なんてルールがあったら困るよ。僕たちが前聖戦に飛んだ時も10代だったでしょう」
「クロノスが、20歳ルールを定めていてくれれば、俺たちは あんな苦労をせずに済んだんだ」

その苦労を クロノスに求めたのがアテナだったことを、氷河は忘れたのか、忘れた振りをしているのか。
素で忘れているのなら、思い出させるようなことはしない方が(アテナと氷河自身のために)いいだろうし、忘れた振りをしているのなら、その事実を指摘するのは野暮というもの。
瞬は曖昧な微笑で、その件をごまかした。

「まあ、無責任で いい加減なギリシャの神なぞに ルールだの節度だのを求める俺が間違っているんだろうが、それにしても忌々しい。時の神というものは、時の流れが乱れないようにするのが 本来の役目だろう」
「それはそうだろうけど、あまり神様の悪口は言わない方がいいよ。特にクロノスの悪口は。何をされるかわかったものじゃない」
「既に、やりたい放題をされて、散々 迷惑を被っている。あの いい加減で無能な時の神に、これ以上 何ができるというんだ!」

『何ができるのか』と、もしクロノス当人に尋ねていたら、彼は おそらく『何でもできる』と答えていたに違いない。
何でもできるから――時の流れを乱すことも治めることもできるから――彼は、彼にできることをしたのだ。
『あの いい加減で無能な時の神に、これ以上 何ができるというんだ!』と、苛立たしげに氷河が毒づいた その瞬間、彼と瞬の前に 突然 子供が一人 現われた。






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