その日は、瞬の20歳の誕生日だった。 マンションの前に、黒塗りのセダン。 両親のない学生が誰からの援助も受けずに借りられる程度のワンルームの部屋だけで構成された集合住宅は、マンションといっても、アパートに毛の生えたような建物である。 その建物の前に グラード財団総帥が乗る車が停まっているのは、いかにも 不釣り合いで、あまりにも不似合い。 かろうじて東京都区内に引っ掛かっている、最寄駅から徒歩20分の立地は、交通の便がいいとはいえず、だからこそ 周辺の道幅も狭くはない――都心部より 土地の使い方は ゆったりしている――のだが、それでも この大型セダンは、マンションの前の道を行き来する通行人や他の車には迷惑な存在だろう。 まさか沙織に文句を言うわけにもいかず、瞬は その車の前で困惑した。 城戸邸を出て2年。 沙織は3ヶ月に1度は 瞬にコンタクトを取ってくるが、彼女が実際に ここにやってきたのは、今日が初めてだった。 「学校に行くのでしょう? 送るわ。乗って」 「沙織さん……」 信用の置けない人間を グラード財団総帥の側近くに仕えさせるわけにはいかないので、城戸では 雇う人間を滅多に入れ替えない。 既に10年以上 沙織に仕えている運転手は、瞬にも顔馴染み。 瞬のためにドアを開けてくれる人に すげない態度を見せることもできず、瞬は、人目を気にしながら、車の後部座席に 滑り込んだのである。 運転席と後部座席の間のパーティションを閉じさせないのは、沙織が聖闘士としての瞬に会いにきたからではないからなのだろう。 実際 沙織が口にした用件は、実に他愛のないものだった。 「お誕生日、おめでとう。今日から お酒も解禁ね」 沙織が そう言うのは、それが 成人した者への常套句だからではなく、氷河の選んだ職業が彼女の念頭にあったからだったろう。 沙織が 自分の誕生日を憶えてくれていたことに驚きかけた瞬は、だが、すぐに それが実に失礼なことだと気付いて、驚くのをやめた 「沙織さんも」 沙織と瞬は同じ乙女座。誕生日は8日しか違わない。 瞬が成人したということは、沙織も つい先日 成人したということなのだ。 神である彼女が成人することに どんな意味があるのか、それ以前に、そもそも意味があるのかどうかすら、瞬には わからなかったのであるが。 「学業の方はどう? 不自由はしていない? 何か困ったことはない?」 「特に問題なく」 彼女のために聖闘士になった(させられた)者のために、沙織が何かをしたいと思ってくれていることは承知しているのだが、彼女の厚意に甘えるわけにはいかない――城戸の力を借りるわけにはいかない。 瞬は、素っ気なくならないように注意しながら、短く、彼女の厚意の無用を沙織に知らせた。 瞬の気持ちに気付いているくせに、沙織は気付かぬ振りを続ける。 「教養課程が終わって、専門課程に入って半年。医学部は大変になる頃でしょう。そろそろ城戸の家に戻ってくる気はない? 日常生活の雑多な あれこれに時間を取られて学業に専念できないのは、あなたにとっても不本意なことだと思うのだけど」 「入試まで ずっと お世話になって、部屋を借りる際には保証人まで立てていただきました。もう十分です。それに……いえ、十分です」 瞬たちの存在を快く思わない人の名を口にするのを避けるため、瞬は言葉を濁したのだが、沙織は ごくあっさり、その名を口にした。 「あなた方がいなくなって、辰巳がすっかり偏屈になってしまったの。日に2、3度は癇癪を起こしているわ」 「その癇癪、邪武が一身に引き受けてくれていると聞いています。僕たちの分も 邪武をねぎらってやってください」 「辰巳の癇癪のターゲットになっているのは、邪武だけではないわ。私もなの。あなたが城戸の家に戻ってきてくれると、辰巳の癇癪が分散されて、私も邪武も楽になるのよ」 沙織が自分のために わざと そう言ってくれていることはわかっている。 しかし彼女の言葉に甘えてしまっては、学費を自力で用意した意味がなくなってしまうのだ。 瞬は首を横に振った。 沙織が、瞬の頑なに、声のない苦笑を洩らす。 「あの大学の理IIIといえば、日本一の難関よ。辰巳も、自分が世話をした子供の優秀さを誇りに思いこそすれ、文句は言わないでしょう」 「沙織さんのためを思うなら、法学か経営に進んで、グラードのため、城戸のために務めることを考えるはずだと言われましたよ。僕には 感謝の気持ちが足りないと」 「辰巳ったら、そんなことを言ったの?」 「辰巳さんは、僕が医師になって、彼を不治の病から生還させるようなことをしても、僕の選択を認めてはくれませんよ。城戸の益、沙織さんの益になることをするのでない限り」 「まさか」 「そういう辰巳さんがいるから、僕も安心して、あの家を出ることができたんです」 ただただ沙織のためだけを考えて生きている男を、責める気はない。 アテナの聖闘士も敵わないほどの辰巳の忠誠心に、瞬は一目も二目も置いていた。 「沙織さんにも辰巳さんにも感謝しています。聖闘士としてなら、いつでも 駆けつけますから、他のことでは 僕のことは捨て置いてください。僕は永遠に沙織さんの聖闘士です」 「頑固者。そんなところだけは一輝にそっくりね」 「それは 僕にとって最高の褒め言葉です。ありがとうございます」 「ええ。もちろん、褒めたのよ」 拗ねたように 沙織が応じた時、ちょうど車は赤門の前に到着した。 |