瞬の小宇宙が ひどく乱れ、街中を覆うほどに広がり、爆発寸前にまで 力を増していることに驚いたらしい氷河が、彼の店から通りに出てくる。 「瞬、どうしたっ」 その場に放心したように立ち尽くしている瞬の肩を掴んで、氷河は大きく二度三度 瞬の身体を揺さぶった。 「どうしたんだ。何があった !? 」 「あ……あ……」 「瞬……?」 「せいや……星矢がいた……!」 「星矢 !? 」 その名を声にするだけで、瞬は精一杯だった。 その名を口の端に のぼらせることがなくなって 久しい。 だが、一日たりとも忘れたことのない、その名――。 かすれた声での瞬の訴えを、氷河は信じてくれたのだろうか。 涙で視界が ぼやけ、瞬は 氷河の瞳を見詰めることができなかった。 星矢の小宇宙は感じとれない。 信じてもらえなくても仕方がない。 むしろ、信じない方が自然。 瞬自身も そう思ったのに、 「おまえは ここで待っていろ。星矢は どっちに行った !? 」 氷河は瞬に訊いてきた。 「わ……わからない……」 頼りない答えを責めもせず、氷河は 駅に向かう人の流れの中に飛び込んでいった。 その流れに乗って、星矢の姿を探しながら、氷河は駅まで走っていったのだろう。 彼が瞬の許に戻ってきたのは、それから15分以上の時間が過ぎてからだった。 「見失ってしまった」 とだけ言って、『見間違いではないのか』と問うてこない氷河に、瞬の瞳はまた、それまでとは違う涙を生むことになったのである。 「ごめんなさい。きっと見間違い……」 顔を俯かせ、くぐもった声で 氷河に告げる。 氷河も半信半疑―― 十中八九、瞬の見間違いだと思っていただろう。 人の目は 自分の見たいものを見、人の耳は 自分の聞きたい言葉だけを聞くようにできている。 氷河が 瞬の見た幻を探しまわってくれたのは、ただ瞬の心を慰撫するためのことだったに決まっていた。 「ごめんなさい……」 もう一度 謝って、氷河の胸に顔を埋める。 氷河が人目を気にするような男でないことが、こういう時は 有難かった。 氷河は、80億人の他人の目より、彼のたった一人の大切な人の涙の方にこそ、重きを置く男なのだ。 「僕……あんな偉そうなこと言っておいて……。僕が医者になろうとしてるのは、本当は、星矢が生きていて、いつか 僕たちのところに帰ってきてくれると信じていたいからなのかもしれない……。星矢が消えたのは、戦えない身体になったからなんじゃないかって……それなら、僕が治してみせるって――星矢は生きててくれるって信じていたくて、星矢が生きててくれさえすれば――生きててくれさえすればって……ただ、それだけなのかもしれない」 自分は何を言っているのか、何を言おうとしているのか。 日本語も滅茶苦茶、ほとんど支離滅裂である。 氷河は、だが、瞬の滅茶苦茶な日本語が伝えようとしていることを 理解してくれたようだった。 「そうか……」 短く低く それだけ言って、瞬の背にまわした手に やわらかい温かさを込める。 生きて、側にいてくれる仲間。 大人になったはずなのに――と思いはするのだが、瞬は 彼に甘えずにはいられなかった。 「どうして……星矢はどうして……」 誰からも、どこからも 答えの与えられない その繰り言を、この数年の間、心の中で幾度 繰り返してきただろう。 100回200回程度ではなかったように思う。 実際、100回200回程度ではなかっただろう。 生死がわからない。 沙織も何も教えてくれない。 生きているのなら、なぜ連絡をくれないのか。 僕たちは仲間ではなかったのか。 もし 生きているのなら――生きているにもかかわらず 連絡をくれないのなら、それは 星矢が戦えない状態にあるから――仲間だからこそ、仲間の足手まといになりたくないと考えてのことなのではないか。 友としての友情でも、仲間としての絆でも、聖闘士の持つ小宇宙でも 癒すことができないのなら、医師として――。 それは 全く合理的でなく、逆に突拍子のない、感情の飛躍でしかなかったのかもしれない。 瞬は星矢のために何かができる自分になりたかったのだ。 氷河の胸で ひとしきり泣いて――瞬は、自分が大人なのだということを思い出した。 「未練がましいと思う? 僕は叶わぬ夢を見ているんだと思う?」 まだ少し涙の残っている声で、氷河に尋ねる。 「思わないさ。星矢が相手では、俺は焼きもちも焼けない」 氷河の答えは優しかった。 優しくて、甘えずにいられない。 「僕……聖戦が終わって、星矢がいなくなって、兄さんも いつも通りに姿を消して、紫龍までが城戸の世話にならずに生きる術を探すって言って城戸邸を出ていった時――氷河もシベリアに行ってしまうんだろうと思った。でも、氷河は日本に残ってくれて――あれは僕のため?」 「邪魔者がいないうちに、何としても、おまえを俺のものにしようと、姑息なことを考えただけだ」 「……」 氷河は、『おまえのため』とは言わない。 いつも『自分のために』と答える。 氷河は優しい。 そして、甘い。 危険だと思いつつ――自分にとって、氷河ほど危険な男はいないということは わかっているのに――瞬は、氷河から離れられなかった。 それが 氷河の仕掛けた罠だったとしても――離れられなかった。 「氷河だけは、いつも僕の側にいてくれるんだって信じてしまいそう」 「まだ信じていなかったのか?」 もう信じている。 「構わないんだぞ。おまえが俺を邪魔だと言わない限り――いや、邪魔だと言われても、俺は おまえの側にいる。まあ、本当は、おまえがいないと 俺が駄目になるだけだからなんだが」 もう信じているから、恐いのだ。 世界というものは、運命というものは、命というものは、いつも いつまでも 信じている通りの世界や運命、望む通りの世界や運命でいてくれるとは限らないものだから。 「ありがとう、氷河。僕、もう大丈夫……」 それでも信じている。 瞬は、氷河の優しさだけは信じていた。 この世界が 自分の信じる通りの世界であればいいと、切なく願いながら。 瞬がまだ疑っていることを――完全に信じてはおらず、そうであればいいと願っているだけだということを――察したのだろう。 氷河の声は、ふいに 厳しく険しい声に変わった。 「信じて貫けば、夢は必ず叶うぞ、瞬」 「氷河……」 抱きしめていた胸から瞬を引き剥がし、氷河が真剣な目をして、瞬の顔を見詰めてる。 「他の奴はいざ知らず、おまえの夢は必ず叶う。もちろん、俺の腹上死の夢も」 真面目な顔をして、呆れるほど美しい顔と瞳で、氷河は何という夢を語ってくれることか。 瞬の口許に、やっと微笑が浮かんできた。 「もう……」 『信じて貫けば、夢は必ず叶う』 普通の“大人”は、その言葉を一笑に付すのかもしれない。 だが、本当の“大人”は――生きることの悲しみ、苦しさ、つらさを味わった人を“大人”と呼ぶのなら――彼等は決して その言葉を笑ったりしない。 ただ 夢だけが――ただ 希望だけが――人を生かし続ける力だということを、彼等は知ってるから。 そうなのだということを知るために、瞬たちの少年時代はあった。 スカイツリーは、地中50メートルの基礎工事が完了し、地上に鉄骨が立ち始めた。 この街は姿を変えていくだろう。 十代の少年だった青銅聖闘士たちも大人になった。 だが、どれほど時間が経っても、変わらないものがある。失われないものがある。 小さな宝石のような希望。 その輝きが見えている限り、人は生きていられるのだ。 納得して己れの死を迎えることができた人というものは、これからも生き続ける誰かに 自身の希望が しっかりと受け継がれたことを確信できた人たちなのかもしれない。 だとしたら、嘆きの壁で 自らの命を燃やし尽くした黄金聖闘士たちは皆、自らの死に(それは自らの“生”ということでもある)満足して死んでいったのか――。 では、希望の光は永遠に消えることはないだろう。 その人の命が消えても、たとえ 二度と会うことができなくても。 人は必ず死ぬ。 人の命は、いつか必ず終わる。 だが、希望の光が永遠に消えないものであるのなら――それが 人から人へ、命から命へ 受け継がれ、永遠に存在し得るものであるのなら――医師というものは、その手助けをするために存在するものなのかもしれない。 希望の光は 永遠に輝き続ける。 夢は必ず叶う。 そう信じるから、瞬は医師になるのだ。 Fin.
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