さて、ところで。 明けて翌日は5月12日。憲法記念日でもなければ、子供の日でもない、ごくごく普通のウィークデー。 一輝は、彼から可愛い弟をかすめ取った盗人に、城戸邸裏庭への呼び出しをかけた。 彼は瞬のためになら、どんな苦痛も苦難も耐えるつもりではあったが、氷河のために何かを我慢するつもりは毛ほどにもなかったのである。 氷河も、そこは似たような心境だったらしい。 兄だというだけで、瞬に『大好きです』と言ってもらえる幸運な男に、彼が好意を持てるはずもない。 暁を忘れさせるような春のうららかな朝日は、既に初夏のそれに変わりつつある。 裏庭で対峙した二人は、『おはようございま〜す♪』の挨拶もなく、唐突に用件に入った。 「氷河。貴様、夕べはわざと俺を瞬の部屋に出向かせたな」 実は昨日、第一幕と第二幕の間には、筆者がわざと割愛した幕間があったのである。 すなわち、昨日夕食後のさりげない氷河の一言、 『一輝、瞬が最近何か悩み事を抱えているようなんだ。相談に乗ってやったらどうだ?』 ――が。 それは決して嘘ではなかった。 兄の帰宅(?)によって、瞬の胸には、確かに昨日突然悩み事が生じていたのである。 無論、氷河の忠告は瞬の兄への好意から出たものではなかったが。 「貴様に隠し事をしているのを、瞬がひどく辛そうにしていたんでな」 氷河は、陰謀の露見に狼狽の色も見せなかった。彼には自分が悪いことをしたという意識がないのだから、それも当然ではある。 「それで、どうせならバラしてしまえ、と」 「貴様に瞬を咎めることができないのはわかっていた」 「貴様がそうだから、だろう」 「……」 一輝が瞬の意思を曲げることができないように、氷河もまた、決して瞬に言うことはできないのである。 『兄を慕うのをやめろ』とは。 その点で、この二人は似たような立場に立っているのだった。故に、互いの憤懣を理解するのも早い。 「死ぬ気で耐えれば耐えられなくもないことを口にして、瞬を失う事態を自ら招くほど、俺も馬鹿ではないんでな」 瞬の兄を睨みつけ、憎々しげに言い募る氷河に、一輝が微かに頷き返す。 「で、どうだ、氷河。まさか我々がいがみ合っていることを瞬に知られるわけにもいかんから、顔や手足は避けて、腹を殴り合うというのは」 「いいな。俺からでいいか」 「俺が先だ」 「……」 氷河と一輝は、その憤怒だけでなく、互いの拳の威力もまた正確に把握し合っていた。できれば、敵の撃を受ける前に、己れの渾身の拳を振るいたい。 そこいらへんも、この二人の相互理解は光速以上だった。 なにしろ、とにかく、全く同じことを考えているのだ。 「では、同時にいくか」 「それしかないようだな」 はっきり言って、この二人は馬鹿である。 海王ポセイドン、太陽神アベル、冥王ハーデス――神すらも倒してきた強大無比な自らの小宇宙を極限まで燃焼させ、平和を願う心ではなく、究極まで高まった憎悪と妬心を込めた二つの拳を同時に炸裂させたら、この城戸邸がどうなってしまうのかさえ、考えようともしなかったのだから。 古代ポンペイの町を一瞬にして瓦解させたベスビオ火山の噴火もこれほどではなかったろうと思えるような大音響に驚いて、裏庭に駆けつけた星矢、紫龍、瞬がそこで見たものは――。 根こそぎ倒れた楠の大木。 ほぼ全壊した城戸邸の西の棟。 ぶすぶすと煙をあげて焦げている土と、隕石の落下でもあったかのように深く抉れた巨大な穴。 そして、その穴の底の中心に、蟻地獄との決死の闘いに敗れ去った蟻のように満身創痍で仰向けに倒れている二人の聖闘士の姿――だった。 「兄さん! 氷河っ! どーしたの! 何があったんですかっっ!?」 わざわざ尋ねるまでもなく、ここで二人の聖闘士が拳を振るい合ったことは疑いようがない。瞬が知りたかったのは、であるからして、何故二人がそんな無謀な行為に及んだのかということだった。 そして、瞬が望んでいるのは、二人が争ったのではないという返事――。 一輝と氷河は、もちろん、瞬の望みを心得ていた。 真実を告げるつもりは毛頭ない。 一般人なら軽く見積もっても全治半年の重傷者たちは、この嘘を言い終わらないうちに意識を失うことは死んでもできないとばかりに、必死の形相で言葉を吐き出した。 「…なんだ、瞬、おまえ、知らないのか。今日はナイチンゲール・デーなんだぞ」 「看護の日とも言う」 「えっ?」 兄と氷河が何を言っているのか、瞬は咄嗟には理解できなかった。 「だから、おまえに看護してもらおうと思ったんだが……」 「加減を少々間違えた。瞬、手当を頼む……」 小説ではなく、マンガなら、ここで『がくっ…』と書き文字が入るところである。 瞬の心を安らかに保つための嘘を根性で言い終えると、氷の聖闘士と不死鳥の聖闘士は、ほとんど同時に気を失った。 「に…兄さんっ! 氷河っ!!」 城戸邸の裏庭に突如出現した超巨大蟻地獄の穴の底で、瞬の悲痛な声が木霊する。 だが。 瞬のためならたとえ火の中穴の中の一輝と氷河も、さすがに今回ばかりはその呼びかけに応えてやることはできなかった――。 「あーあ。やっぱりやっちまったよ、あの二人」 瞬の痛ましい声に動じるふうもなく、星矢は、巨大蟻地獄の縁にしゃがみこみ、呑気かつ文字通りに高見の見物を決め込んでいる。 そして、そんな星矢の横には、人生の真理を苦く噛みしめる紫龍の姿があった。 「一輝に期待した俺が馬鹿だった……」 人生の闘いは、結局は自分の力で闘い抜いていかなければならないのだという、実にありふれた真実を手に入れた龍星座の聖闘士の姿は、超壮絶な割りに、果てしなく弛緩しまくっていた。 to be continued
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