納豆の日・翌日編





「あの匂いには耐えられん。いったい誰が納豆なんてものを発明したんだ。傍迷惑な……」


昨日城戸邸に届けられた納豆の匂いに気付いて、いちはやく難を逃れた一輝は、城戸邸近くの児童公園のベンチに腰掛けて、ぬけるように青い空を仰ぎ見た。
城戸邸に寄宿していない時、果たして彼がどんなふうに生活をしているのかは誰も知らない謎であるから、昨夕を彼がどこで過ごしたのかについては、筆者は触れない。



で、そこに紫龍が登場するのは、単なるご都合主義である。


「一輝! 一輝じゃないか。ちょうど良かった!」
にこやかにそう言って近づいてくる紫龍は、なにやら10年前のオタク少年がトレードマークにしていたような紙袋をその手にぶら下げていた。

一輝は、何か嫌な予感がしたのである。
昨日一輝が城戸邸を出た日とは、紫龍の顔つきが微妙に違っていることに、彼はすぐに気付いた。


「実は……」

その紫龍が、どこか何かが変わってしまった顔に深刻な表情を浮かべて、偶然出会った戦友に、このご都合主義的遭遇の説明を始める。

「夕べ、氷河が病院に担ぎ込まれたんだ。今、その病院からの帰りでな」

紫龍は、一輝に、氷河の緊急入院が愛の納豆づくしディナーのせいだとは知らせなかった。 わざわざ一輝にそんなことを知らせても、自分には何の益もないことを、彼は知っていたのだ。


「なに?」
愛する弟を掠め取った泥棒猫の不幸を知らされて、一瞬、一輝の瞳が輝く。 


「瞬が付き添いたがっているんだが、氷河は頑なに拒んでいる」

「……ふん。アタマ以外は人並み以上に丈夫な奴だと思っていたが、腎虚にでも罹ったのか」

氷河などは死んでも何の感傷も湧かないが、そのせいで悲しむ瞬の姿を、一輝は見たくはなかった。

「真っ青な顔をして突然ブッ倒れるから、急性の心筋梗塞か脳卒中かと思ったんだが、実は単なる食アタリだった」

「ふん。どこぞで拾い食いでもしたんだろう。奴のしそうなことだ」

紫龍は、吐き出すようにそう言う一輝をたしなめるようなことはしなかった。 一輝の心情を考えれば、その言い草も無理からぬことではあるのだ。

「かもしれないな。氷河自身は、自分の病名を決して瞬に知らせるなと言っているし、瞬を病院に来させるなとも言い張っている」


「拾い食いだな、原因は」
一輝は確信した。
そう確信したかったから、彼は確信したのである。
その確信が事実かどうかは、彼にはどうでもいいことだった。


「……それはどうなのかは知らないが、いずれにしても、氷河の入院は自業自得だろう。しかし、病気が病気なもんだから、せっかく持ってきた差し入れをそのまま持って帰らなければならなくなってなぁ。これをどうしたものかと困っていたところだったんだ。手つかずのまま持ち帰ったら、氷河の病名を知らされていない瞬が心配するだろうし……」

そう言って、紫龍は、自分の手にしていた紙袋を指し示した。

その紙袋を見た一輝が、中に入っているものを、瞬が拾い食い男のために一生懸命準備した差し入れだと思い込んだのは、致し方ないことだったろう。
まさか、それが、今一輝の目の前にいる長髪男の2時間もの苦闘の成果だとは、一輝でなくても思うまい。

「む……」

一輝は、この世に存在するただ一人の肉親である弟をこの上なく愛していた。 瞬の悲しむ顔など、たとえ憎たらしい毛唐男のためであったとしても見たくはない。
故に、彼は、瞬の兄として当然の言葉を、深い思慮もなく吐いてしまったのである。


「それは、俺が食おう」
――と。


その言葉を聞いた紫龍の顔が、夏場の某鷲座1等星のごとく鮮やかに輝く。

「そうか! いやー、助かった! 瞬を悲しませるわけにはいかないから、これは俺が片付けなければならないのかと、気落ちしていたところだったんだ」


「? 気落ちとは、どういう意味だ?」

尋ね返す一輝を無視して、紫龍がさっさと話を進める。
「そうだな。そこの芝生でピクニックと洒落込むか。いや、さすがは一輝。おまえの瞬を思う気持ちに、俺は感じ入ったぞ!」


紫龍の言動に不審なものを感じつつも、一輝は彼と共に、目の前にあった芝生の中に足を踏み入れたのである。彼を動かしていたものは、最愛の弟・瞬の清らかな真心を守り抜きたいという、ただその一心だった。



そうして、梅雨もあけた公園の緑の芝生に積み重ねられた重箱の蓋をとった途端、一輝の視界に飛び込んできたもの。



それは――読者諸嬢には既に察しがついていることと思うが――パック売りの赤い宝石・さくらんぼのごとく美しく、 そしてぎっしりと並べられた、腐った豆、豆、豆、豆、更に豆、だったのだ。



「……………………!!!!!!!!!!」



三段重ねの重箱に隙間もなく並んでいるつぶつぶ納豆の可憐さ、行儀よさに、一輝は盛大に絶句した。
















――10分経過。













10分後、一輝は、雄々しくも果敢に、紫龍の差し出す朱塗りの箸を手にとった。

「おまえらとの腐れ縁は切っても切れないらしいな……」
ころころと可愛らしい納豆の粒たちに、一輝が溜息混じりに呟く。



絡み合い縺れ合う納豆の糸を見詰めながら、愛する弟のために、一輝は緊急入院の覚悟を決めたのだった。







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