「で?」 「瞬は、おまえが、いつも自分を殺して何事も我慢しているんだと誤解したんだな。当然、瞬はそんなことは望んでいないから、どうすればいいのかと俺に相談してきた。だから、俺は、瞬がおまえに散々我儘を言い続ければ、おまえも堪忍袋の緒が切れて、自己主張を始めるようになるだろうと、親切に忠告してやったわけだ」 「…………」 これが余計なお世話でなくて、何が小さな親切だろう。 瞬のそれが『誤解』だとわかっていながら、そんな忠告をするのは、まさに悪魔の所業である。 「まあ、俺は、それは贅沢な望みだとは言ってやったんだぞ、一応。付き合ってる相手がほいほいとみっともなく何でも言うことをきいてくれるなら、願ったり叶ったりじゃないか、とな」 「――紫龍、き…貴様…っっ!」 そんな言い方をされて、『そーいやそーだね』と納得する瞬ではないことぐらい、蛙ほどの脳みそもないオタマジャクシにもわかりそうなものではないか。 氷河は、これまで、その存在にすら気を留めていなかった長髪男を、思い切り睨みつけた。 いつのまにか妙にふてぶてしくなってしまったこの男に、一発ヤキを入れてやらなければならないと、瞬の肩を抱きしめていた手を拳に変える。 が、そんな氷河を遮ったのは、あろうことか、その長髪男にいいように踊らされていた瞬当人だった。 「贅沢なんかじゃない! 贅沢な望みなんかじゃないよ! 僕は――。僕が氷河とどっかのお店入ろうってことになるでしょ。僕はケーキを食べたいけど、でも氷河は甘いの苦手なんだよね。だから、他のお店に入りたいはずなのに、氷河はすたすたケーキ屋さんに入ってって、コーヒーでもあれば、それ飲んでるけど、紅茶しかないとこだと、一口口をつけたくらいで、僕が食べ終わるの待ってて……。そんなんじゃないんだ。そんなんじゃなくて、僕……。たとえば、僕がケーキ食べたいって言って、けど、でも、氷河はラーメンを食べたいって言って、それで、じゃ今日はラーメン屋さん行こっかって言ってあげたかったんだよ、僕、氷河に! そしたら、氷河だって、僕がどんなに氷河を好きでいるか、わかってくれると思ったんだ!」 日本語的には滅茶苦茶であるが、だからこそ必死なのだとわかる(はずの)瞬の訴えに対する氷河の反応は、まるで緊張感に欠けていた。 すなわち、 「俺はラーメンはあんまり……」 ――である。 「ラ……ラーメンがいやなら、ピザでも、お好み焼きでも、パスタでも、牛丼でも何でもいいの!」 「それも別に……」 「…………」 何か肩透かしを食わされたような格好で、瞬が氷河に尋ねる。 瞬としては、自分が氷河を好きでいることを氷河にわかってもらいたくて、それそこ一意専心、無二無三だったのだ。 「……氷河、何か好きなものないの」 しかし、当の氷河にはそれはどうでもいいことだったのかもしれない。 否、おそらく、彼は、瞬がそんなことに必死になる訳がまるでわからなかったのだ。 わからないながらも、彼が紡ぎ出した答え。 それは、 「俺は、おまえの笑顔を食って生きてるんだ」 ――だった。 思いがけない氷河の主食に、瞬が一瞬きょとんとする。 「おまえがケーキを食って、嬉しそうにしているのを見ると、俺も嬉しくなる」 「氷河……」 事ここに至ってやっと、瞬は日頃の冷静さを取り戻した。 わからないことがあったら、氷河の青い瞳を覗いてみればいいのだという、このシリーズ唯一にして不変の設定を、瞬は今頃になって思い出したのである。 瞬は――瞬は、その通りにした。 そして、瞬にはすべてがわかったのである。 瞬は、自分が無意味な一人相撲をとっていたことを知り、羞恥のために、少しだけ目を伏せた。 「ご……ごめんね、氷河。僕……氷河がいつも僕を嬉しそうに見てるから、僕も嬉しくって、だから、星矢と美穂ちゃんの喧嘩見るまで、氷河が僕のために何かを我慢してるんじゃないかなんてこと、考えもしなかったの……」 「考える必要もないことだ」 「……氷河、我慢してるんじゃないの」 「いや、俺は我慢したことなど一度もない」 氷河は、あっさりと断言した。 それはそうである。 氷河の辞書に『我慢』などという高尚かつ高潔な単語が載っているはずがない。 「うん……」 載っているはずがないことを、早速氷河が証明し始める。 彼は瞬の誤解が解けたことを知ると、はにかむように微笑む瞬に、表情もなく言ってのけた。 「だが、俺にはおまえの笑顔と同じくらい好物があって」 「え? なになに?」 と、身を乗り出すようにして氷河の瞳を見あげた瞬が、氷河の言うところの“好物”を、彼の瞳の中に即座に読み取って、ぽっ☆と頬を上気させる。 「やだ、氷河ってば」 と、そう言いながら、実はそれは瞬の好物(どころか、大好物)でもあったので、すぐ側にいる紫龍を少しばかり気にしつつも、瞬はそわそわした様子で氷河に告げた。 「……えーと、じゃ、お部屋行こっか」 氷河が、平生の無口に戻ってこくりと頷く。 人間は自分の意志が正しく相手に伝わっていさえすれば、言葉を使う必要などないのである。 なにしろ言葉というものは、誤解を解く力の他に、誤解を深める力も持っている、実に扱いにくい代物なのだから。 「えと、あの、紫龍、じゃまたね。相談にのってくれてありがと」 「ああ、まあ、せいぜい頑張ってくれ。悩み事があったら、いつでも相談に乗るぞ」 紫龍がにこやかに瞬に返したその言葉に反応して、氷河の目つきがきつくなる。 が、紫龍は素知らぬ振りを決め込んだ。 目の前にニンジンをぶら下げられた馬状態の今の氷河が、ニンジン以外のものに噛み付くはずがないことを、紫龍は承知していた。 紫龍とて、毎度のこととはいえ、この落ちに不満がないわけではなかったのである。 が、どれだけいたぶられようが理不尽な苦労を押し付けられようが、その苦労を補って余りあるものを、氷河が得ているという事実を確かめられるということは、紫龍にとってはそう不愉快なことではなかったのだ。 そうであればこそ、紫龍は、氷雪男をいたぶることに良心の痛みを感じずに済むのだから。 「さて、来月は、あの助平野郎をどうしてやろうか」 そうして――。 自分の独り言が、背筋も凍りつくようなくだらないシャレになっていることにはあえて気付かぬ振りをして、紫龍はテーブルの上にある卓上カレンダーのページを8月から9月へと置き換えたのだった。 to be continued
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