「おーい、しゅーん! ここ開けてくれよー」 星矢が声をかけると、(氷河の)部屋のドアは気が抜けるほどあっさりと開いた。 おそらくは、氷河が星矢に事の次第を説明している間に、瞬の方も冷静さを取り戻すことができていたに違いない。 星矢は、廊下で待っている金髪男のためにほんの少し隙間を残してドアを引き、それから、ぽりぽりと頭をかきながら、瞬に言った。 「氷河がさー、なんでこんなことになったのか説明してくれたんだけどよー」 「うん……」 瞬は、それでもまだ無気力に思える仕草で星矢に頷くと、部屋の中央にある肘掛け椅子に腰をおろした。それから、その椅子の上で両膝を抱え込む。多分、星矢が来るまでずっと、瞬はそうしていたのだろう。 瞬は抱え込んだ膝に、自分の額を押しつけた。 「しっかし、びっくりしたぜ。氷河の奴、ちゃんと長い日本語喋れるんでやんの。おまえのためなら、ほんとに何でもできるんだな、あいつ。健気なこった」 「うん……」 それは――氷河が、自分のためになら大抵のことはやり遂げてくれることを――瞬は知っていた。 知ってはいたのだが。 「気にするようなことじゃないってことは、最初からわかってるんだよ。でも……」 膝に額を押しつけたまま、瞬が視線だけを星矢に向ける。 「なんか……さ。僕がものがわかったみたいに偉そうに何を言ったって、それは頭で考えたことで、理屈にすぎなくて、だから実際にそれを経験した人には敵わなくて、重みもなくて……」 だが、星矢の上に据えられた瞬の視線は、そのまま星矢を素通りしているような無気力な視線だった。 「そんなこと気にするのはおかしいって、理屈では思ってたって、実際は気になって仕様がないし、考えるまいと思うほどに気になっちゃうし」 瞬が見ているのは、星矢ではないのだろう。 「僕は氷河以外の人を好きになったこともないから、そんなこと想像もできないし、氷河が僕以外の人を好きだったことがあったって、それは当たり前のことで、責めるようなことでもなくて、でも……」 そして、瞬が見ているのは、たった一枚の壁を隔てた廊下にいる氷河でもなかった。 「今の氷河を疑ってるわけじゃないの。そんなんじゃないんだよ。ただ……」 氷河でもないのだということを、星矢は、思いがけない瞬の言葉で知ることになったのである。 「氷河には、僕より好きな人がいたのかなぁ……」 瞬の視線が誰に向けられているのか、瞬が何を思い煩って(氷河の)部屋に閉じこもるような真似をしでかしたのか。 その理由を知らされて、星矢は――星矢は、思いっきり呆れてしまったのである。 おそらくは、廊下で聞き耳を立てていたはずの氷河も驚いていたに違いない。 瞬の視線は、いもしない氷河のかつての恋人に向けられていたのだ。 瞬以上に好きな相手が氷河にいたのかどうか。 そんなことは――そんなものがいたはずがないということは、ほとんど毎日を食欲という本能だけで生きている星矢にもわかることだった。 冷静に考えたら――考えるまでもなく――わかりそうなものではないか。 口を開くのも面倒だという氷河に、もし、見てくれに惹かれて寄ってくる女が多々いたとしても、彼女は、瞬のように氷河を“見る”目を持っていなければ、氷河と理解を深めることは――深めようとすることすら――できないのである。だとしたら、氷河とて、そんな程度の相手に熱意をもって接する気になれるはずがない。 今の彼が瞬にそうしているように、恋ごときに精魂を傾ける気になどなれるはずがないのだ。 あきれた星矢は、氷河を室内に呼び入れようとして踵を返した。 が、その時には、既に氷河は(自分の)部屋に入ってきていたのである。 氷河にしては珍しい命令違反ではあった。 「なんだよ、俺はただの鍵代わりかよ」 ぶつぶつと文句を垂れながら、それでも星矢はさっさと氷河の部屋を出ていってしまったのである。 大らかでも、いー加減でも、考えなしでも、主人公は主人公。 星矢は、自分がどの場面に登場し、何を合図に退場すべきなのかを、他のどの登場人物よりも的確かつ正確に把握していた。 星矢がその場を立ち去ると、氷河はもちろん、今度はしっかりとドアを閉めたのである。 |