「氷河……? そんな……だって、氷河は僕が――」 瞬はいったい何が起こったのかがわからなかったのである。 目の前で“氷河”が“彼”に変わってしまった時よりも、瞬は混乱した。 「いや、それが――」 涙を浮かべた瞳をいっぱいに見開いている瞬に、氷河が苦笑を向けてくる。 氷河を欲しいという自分の思いに勝てる力など存在しないと思っていたのに、自分がその執着を諦めるまで その力は氷河を支配し続けるのだと思っていたのに、今 瞬の目の前にいるのは、やはり氷河その人らしかった。 「確かに、一時は自分の意識がどこかに消えてしまったようになっていたんだが、俺の助平根性の為せるわざというか何というか、おまえの中に入った途端に 自分が戻ってきた。俺以外の誰にも――たとえ おまえにでも、あの感覚は体験させたくないからな」 冗談なのか本気なのか、それ以前に事実なのか虚言なのか――戸惑う瞬の前で、氷河の口調はどこまでも軽快だった。 「毎晩ろくでもない夢を見続けているわりに、その痕跡が残っていないと思ったら、俺は全部おまえの中に吐き出していたのか」 「あ……で……でも、氷河、この頃は夢も見ないって――」 氷河にそう言われたから、瞬は、自分がすべての元凶だということを確信したのである。 瞬を絶望に追い込んだその言葉を、氷河は、 「本当のことが言えるか」 という、あっさりした一言で一蹴してくれた。 「おまえを欲しいという思いで、俺がおまえに負けるはずがないだろう。俺が勝つに決っている。俺の方が助平だからな」 氷河は彼の言葉を続ける。 戸惑いを完全に消し去ることはできぬまま、それでも瞬は少しずつ自身の心と身体の緊張がやわらいでくるのを感じていた。 「ほんとに氷河……?」 「そう、俺だ」 「あ……」 もしかしたら、氷河は“瞬”のしたことに腹を立てていない。 責めることも考えていない。 そして、“瞬”を嫌ってもいない。 二人はこれからも二人のままでいられるのかもしれない――。 瞬の中で小さな希望が生まれ、氷河はそれを大きく確かなものにしてくれた。 「ごめんなさい……」 「謝るなと言ったろう。どうせ俺は、自分の意識を保っている時もおまえに操られているようなものだったし――俺が悪かったんだ。俺は――おまえを自分のものにしたかったが、おまえを見ていられるだけでも幸せだったから」 そう言ってから、氷河は少しく考え込む素振りを見せ、やがてゆっくりと首を横に振った。 「いや、それは嘘だ。おまえはいつか俺のものになると確信していたから、俺は油断していた」 「僕も……そう思っていたから――」 氷河のことだから 先に言われてしまったら気を悪くするのではないかと、そんな他愛のない理由で、瞬はただじっと待っていたのだ。 確信があったから、待つことは苦にはなっていないつもりだった。 それがなぜこんなことになってしまったのか――瞬は、それが我ながら不思議でならなかったのである。 が、氷河は、終わってしまったことを今更あれこれ詮索する気はないらしい。 瞬の瞳を見詰め、その青い瞳に瞬の姿を写しとり、彼は自信満々で言ったのだった。 「俺がおまえを好きな気持ちに、おまえが俺を好きでいてくれる気持ちは 勝てない。よくて互角、俺に簡単に勝てる奴はいない。安心しろ」 「氷河……」 瞬は、彼の青い瞳を、ひどく久し振りに真正面から見詰めた。 子供の頃から、魔法にかけられたように魅入られ続けてきた その瞳。 その瞳を見詰めながら、瞬は思ったのである。 もしかしたら本当は、“瞬”が“氷河”を操っていたのではなく、この青い瞳が“瞬”に“氷河”を操らせていたのではないだろうか――“氷河”と“瞬”は互いに互いを操って、互いを互いに求めさせようとしていたのではないか――と。 そう思った時、瞬は初めて心からの安堵を覚えたのである。 その口許には僅かに笑みさえ浮かんできた。 もし それは、この世界のそこここで行なわれている 実にありふれた行為だった。 誰もが知っている、“恋”という名の。 Fin.
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