「そんなことできません! そんなこと!」

一瞬の躊躇もない瞬の拒絶の言葉を聞くや、アベルは今度は高く声をあげて笑った。

「仲間たちや多くの人間のために命を捧げる行為は美しい。そして、自らの信じる正義のために、敵の血を流す行為も許容できる。だが、その身を堕落させる行為は醜悪極まりないことだと思っているわけだな、君は。たとえ、それで、数十億の人間の命が救われるとわかっていても」

神と名乗る男は、なぜか――ひどく楽しそうだった。

「実に、面白い価値観だ。汚れを知らぬ故に誇り高い人間にありがちな考え方だ」

アベルが、瞬の顎を捉える。

「あの処女神アテナも、我が身の純潔を犠牲にと言われたなら、拒んでいたのだろうな。たとえ、その代償が地上の平和だったとしても。人間共のために命は捨てられるのに、自らの誇りだけは捨てられない。――君もアテナに似ているな。その潔癖なところは」

神の声が、瞬にまとわりつく。

「何でもないことだ。人間たちの誰もがしていること。愛していない相手と寝る。そして、喘ぎ、乱れる。誰だってしていることなのに、君にはそれができない」

人間界を滅ぼそうとしている神の微笑は、これ以上はないほどに冷ややかだった。
その微笑にさえ、何かの魔力が潜んでいるような気がする。
瞬は思わず、自分を抱き包んでいるアベルの腕を振り払い、神殿の石の床に、自分の力で自分を支え立った。

「君はそれができない人種で、だからこそ君には価値があるんだ」

そう告げるアベルの口調には、軽蔑の響きが混じっている。

「傲慢なことだ。人の世は汚れているのに、自分だけは美しいままでいる。だから、平気で、正義の何のと声高に叫べるのだ。君に守られている多くの者たちは、君の言動に後ろめたさを感じ、自分の罪を自覚し、汚れのない瞳をして罪ある者たちを守っている君を憎み、あるいは嘲笑していることだろう」

そんなことがあるのだろうか?
アテナの聖闘士たちが、自らの命を捨てて守ってきたものたちに憎まれている。

「私は、自らの罪を知る者たちへの同情に耐えんな」

自分たちを守護する者たちの清廉潔白に、人々が傷付いているなどということが――?


「汚れた者の心などわからぬくせに」

アベルの言葉が、瞬を追い詰めていく。
彼の言葉を否定する根拠も肯定する根拠も、瞬には見付け出すことができなかった。

「汚れを本当に厭うのは、自ら汚れたことのある者だけだ。邪悪を知らぬ故に、真に邪悪を憎むこともできない君たちが、邪悪を滅ぼそうとする。素晴らしい矛盾だな」

「あ……あなたは汚れたことがあるの。あなたは、地上の汚れを憎んでいるようだったけど。その汚れを浄化するために、地上を滅ぼしてやろうと思うくらいに」

瞬がやっとの思いで紡ぎ出した言葉を、アベルは一笑に付してみせた。

「人間が思う穢れを神の次元で語ることは無意味だ。何が汚れで何が美しいか、何が悪で何が善かを決めるのは、神なのだからな」

では、汚れも美しさも善も悪も、神の数だけ存在するということになる。
事実、今、アベルとアテナの善と悪は対立しているのだから。

「が、人間の次元で語るなら――いや、君の次元で語るなら、私はもちろん、汚れを知っている。私は、君を愛してなどいないし、純粋に概念としての邪悪を憎悪できるその綺麗な心にもうんざりする。だが、君を抱くことは何の抵抗もなくできるな」


瞬には、その感覚がわからなかった。
心底からわからなかった。
瞬は、これまで、好きだと思う相手に我が身を委ねることすら、ずっとためらい続けてきたというのに。








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