王の計らいで、仕事を免除された氷河は、王宮内にある宿舎を出払って、公爵邸に寝起きするようになっていた。 氷河は、後継者選定までの期間の最初の1週間ほどを公爵邸にとどまり、瞬への各分野への試問を実施して、学習カリキュラムを作成するつもりでいた。 なにしろ、継承者選定の日までの期間は100日にも足りない。 寝る間も惜しんでの詰め込み学習になるものと、当初、氷河は踏んでいた。 「……これでは、私に教えられるのは社交術くらいのものですね。あとはせいぜい剣と議論のお相手を勤めるくらいのものです」 剣は、基本の型を教えただけで、瞬は一通りの技術だけは身につけてしまった。 乗馬の方も、氷河が瞬用に選んだ白馬は、瞬に会った途端に新しい主人の言いなりだった。 社交術と言っても、まさか瞬に女の口説き方や男の誘いを断る方法など口伝するわけにもいかない。 氷河は、思わぬ事態に少々慌ててしまったのである。 自分にほとんど何もすることがない──という思わぬ事態に。 王宮内での作法も、瞬の身分なら、王に対する作法さえ身につけておけばいい。 身分の高い者のすることは、それがその場の作法になるのが、この国の宮廷でのしきたりだった。 「とりあえず、ダンスの相手でも探して──」 くだらぬことではあるが、氷河にはそれくらいしか、瞬に必要な“たしなみ”が思いつかなかった。 ダンスばかりは、氷河にも教えることできない。 瞬にふさわしい女性のパートナーが必要だった。 「あ、それ、僕、得意です」 「は?」 「氷河、こっち来て」 瞬が掛けていた椅子から立ち上がって、氷河の手を取り、部屋の中央に引っ張っていく。 磨き込まれた大理石の床の上で、瞬は戸惑う氷河を相手に、小さく音楽を口ずさみながら、ここ1、2年宮廷内で流行っている3拍子のボールルームダンスを披露してみせてくれた。 しかも、瞬のフィガーは、ダンス以外に興味がないような若い貴族の令嬢などよりはるかに巧みである。 それは、氷河がリードする必要もないほどのレベルに達していたが、いかんせん、致命的な欠陥があった。 「瞬様……。確かに、大変お上手ですが……」 「ですが……?」 「それは女性のステップです」 「えっ !? 」 自分が何を踊っているのかに、瞬はまるで気付いていなかったらしい。 小さな公爵は氷河の言葉に呆然となり、その場に立ち尽くしてしまった。 が、氷河にとっての問題は、瞬の知っているステップが女性のものだということではなく、誰がそれを瞬に教え込んだのかということの方だった。 どこかで教本を入手して覚えたというのなら、男女のステップを間違えるはずがない。 「どこで……誰に教えてもらったのですか」 瞬に女性のステップを踏ませた見知らぬ男への妬心を無理に抑えつけて、氷河は抑揚のない声で瞬に尋ねた。 瞬が、少しばかり気落ちした様子で、小さく吐息する。 「毎年夏に、都にやってくるジプシーの人たちから……。庭に泊めてあげたの。お芝居でダンスのシーンがあって、その練習を眺めていたら、教えてくれるって言って……」 瞬はそう告げると、書斎の窓の外に広がる、庭園と言うよりは休耕地とでも言った方がいいような空間にちらりと視線を投げた。 「そんな危険なことをなさったのですか! どこの馬の骨とも知れぬ者共を邸内に入れるなど……!」 瞬の無用心を聞かされて、氷河はつい非難の口調になってしまっていた。 「でも、あの人たちに宿舎用のテントを張る場所を提供するのはお父様がいらした頃から、毎年の恒例だったし、僕も色んなお話を聞けて楽しいし……」 「前公爵がご存命の頃はいざ知らず、今は、この屋敷には瞬様おひとりなんですよ! ろくに警備の者もいないのに、そんな者たちを……」 氷河の危惧を全くの杞憂と考えているらしく、瞬は、氷河の剣幕に楽しそうな笑い声で答えてきた。 「氷河は、何を心配しているの。この屋敷には、盗んでお金になるような宝石も黄金も高価な衣装もなくて、あるのは書物と少しばかりの絵画だけ。あの人たちは、逆に僕に楽器をプレゼントしてくれ……」 「瞬様が!」 鷹揚としか言いようのない瞬の危機感の無さに、氷河が思わず声を荒げる。 氷河の怒声に、瞬は笑顔をそのまま凍りつかせて、びくりと身体を震わせた。 「瞬様がいらっしゃるではありませんか! 宝石や黄金などよりずっと価値のある!」 「氷河……」 「もっと、ご自分の身の安全に気を配っていただかねば、私が困ります!」 「だ……大丈夫だよ、氷河。僕だって、いつまでも非力な子供じゃないんだし」 悪戯をした子供が母親に弁解するような眼差しで、瞬は氷河を見上げてくる。 瞬はいつまでも子供ではない──この場合は、それこそが問題の種だった。 「これまではこれまで、これからが問題なんです! ご自分の立場をわきまえてください」 「これからは氷河がいてくれるから、大丈夫」 「…………」 それが叶うならどれほど幸福かと、氷河は願わずにはいられなかった。 叶うのなら言わずに済むことを、言葉にしないわけにはいかない我が身が恨めしい。 「瞬様は──お美しいのです。わかりますか、それがどんなに危険なことなのか」 「美しい……って、そんなの、僕なんかより氷河の方がずっと綺麗。知ってる? 僕はいつも氷河を見るたびに見とれてるの」 「…………」 瞬と自分とでは美しさの種類が違うのだとは、氷河も言葉にしにくかった。 瞬が、けしからぬ趣味を持った男に狙われやすい容姿を備えているのだとは。 「ともかく、これからは、決しておひとりでは出歩かぬよう、おひとりにならぬよう、それだけはお約束ください」 「これからは、いつも氷河に貼りついていることにします」 にこにこと楽しそうに笑う瞬に、氷河は嘆息することしかできなかった。 |