朝の光を見るのは久し振りだった――そのはずだった。 そして、 「おはようございます、瞬様」 氷河のそんな穏やかな声は二度と聞けないはずだった。 それなのに。 氷河が瞬の家庭教師として公爵邸に起居していた頃。 王位継承者選定の話が出て、氷河を自邸に引き止めておけるようになった頃。 その頃と変わらぬ口調の氷河に朝の挨拶を投げかけられて、瞬は、自分が夢を見ているのではないかと思った。 「……氷河」 そこは、陽光を拒否したあの不健康な王の寝室ではなく、瞬が生まれた時から過ごしてきた、暖かく新鮮な朝の光に満ちた瞬自身の部屋だった。 「あ……僕……」 氷河が、瞬の言葉の先を遮るようにして、微笑を向けてくる。 「瞬様には、私の浅はかから、本当にご心配をおかけいたしました。本日、軟禁されていた部屋から出ることを許されてまいりました」 「氷河……?」 瞳の奥でより深く微笑んでいるような氷河の見慣れた微笑に、瞬は戸惑った。 戸惑いつつ、寝台の上に身体を起こす。 氷河は、瞬の困惑に気付いていないかのように、言葉を続けた。 「王が、瞬様を王になるには未熟というようなことを申されましたので、つい反論してしまったのです。それが王の気に障ったらしく――」 「氷河、牢に……ううん、王様の……あ……」 「あれは、牢と言うほどのものでは……。はい、ですが、思いの他、早くに勘気は解けたようです」 「死刑囚の牢に……」 「いくら、あの王でも、瞬様を擁護しただけの者を死刑にはできますまい」 氷河の笑みには屈託がない。 翳りもなく、むしろ、それは、寝惚けている主人への失笑めいてさえいた。 「……氷河?」 「はい」 「あ……ううん。何でもないの。変な夢を……変な夢を見てたみたい……」 今が夢なのではなく、王のあの薄暗い部屋での数日間の方が、長い夢だった――。 瞬は、以前と変わらぬ氷河の態度から、その答えしか導き出せなかった。 「選定の日が近付いておりますから、緊張しておいでなのかもしれませんね」 「そ……そうだよね。うん、すぐ着替えて――」 考えてみれば、あんな悪夢が現実の世界で起こり得るはずがない。 瞬は、そう考えて、氷河の笑顔に納得しかけ、そして――白い夜着の袖から覗く自分の腕に、鬱血の跡を見付けて、ぎくりと身体を強張らせた。 「どうかされましたか」 怪訝そうに、氷河が尋ねてくる。 瞬は、夢の中でハーデスが告げた言葉を、なぜかひどく鮮明に思い出した。 『では、動けるようになったら、公爵邸に帰り、何事もなかったような顔をしていなさい。その――痕跡が消えるまで、君の騎士殿に肌を見られるようなことをしてはいけない』 これは、氷河に見られてはいけないものだ。 咄嗟にそう判断し、腕を、自身の背後にまわす。 「ううん。何でもない。着替えて、すぐ下におりていきます」 瞬は、生まれて初めて、作り笑いをその顔に浮かべた。 「はい、お待ちしております」 氷河がゆっくりと頷いて、扉の外に出ていく。 氷河が自分の着替えを手伝ってくれなくなったのは、いつの頃からだったろう。 そんなことを思うともなく思いながら、今はその事実を幸運だと思い、瞬は安堵した。 |