氷河は、瞬と同じ部屋にいるのを嫌がっている態度をあからさまにする。 そんな氷河を説得する言葉も材料も見付け出せなかった瞬は、陽が暮れると早々に、氷河に指し示された隣室に引きこもらざるを得なかった。 ゲストルームと呼ぶにはあまりにささやかなその小部屋にあるものは、小さなベッドと窓が一つだけ。 窓からは、水平に走っているような白い雪しか見えない。 北国の人々の生活を妨げる白い悪魔は、安全な家の中から眺めている分には、漆黒の闇の中を走る、無数の白い糸にしか見えなかった。 ――その白い悪魔が、ふいに、瞬に話しかけてくる。 「おまえの欲しいものをくれてやろうか」 否、白い悪魔の声と思われたそれは、小部屋の窓に映る瞬自身だった。 突然の出来事に驚いている瞬の前で、それは、窓の枠を抜け出し、人の姿を形作った。 瞬の視界で、ぼんやりと結ばれた人の姿の輪郭は、瞬自身のようでもあったが、氷河にも似ているような気がした。 「あの男をおまえのものにしたいんだろう? おまえに懐く犬のように、おまえの言うことを聞いて、いつもおまえの側にいるような――」 瞬の驚きは、一瞬しか続かなかった。 人の住む里から離れ、自分の他に人の姿もなく、言葉を交わせる相手もいない、孤立した場所。 そこでは、どんなことが起こっても、さして不思議とは思えなかったのである。 自然であろうが、超自然であろうが、いずれにしても瞬は、その不思議を幻と笑って無視することができたはずだった。 だというのに、なぜ尋ね返してしまったのか――。 「代わりに何が欲しいの」 瞬は、それを白い悪魔の化身だと思った。 そして、悪魔とはそういうもの――代償を求めるもの――だと、瞬は認識していたのである。 だが、瞬と氷河の姿をしたそれは、薄く笑って、左右に首を振った。 「代償はいらない」 「僕の欲しいものをくれるだなんて、あなたは悪魔? それとも神?」 瞬が欲しいものは人間だった。 それを自由にできる存在に、瞬は、その二つ以外に心当たりがなかった。 「そんなものは、この世に存在しない。人の心を変えることができるのは、人の心だけだ」 「じゃあ、なに?」 「人の心を変えることができるのは、人の心だけだと言ったろう。俺は、おまえの心で、おまえの意思で――そして、あの男の心でもある」 「あなたが氷河の心であるはずがないでしょ。氷河の心は、僕の望みと正反対の方を向いてるんだから。僕の側に──仲間の側にいることを、氷河は望んでないんだ」 「望んでるさ。無駄な抵抗をせずに、何でもおまえの望む通りにしてやれたらどんなに楽だろうと、あれは、いつも考えている」 「無駄な抵抗?」 何ものに対して、自分は問いかけているのだろうという疑いが、一瞬、瞬の脳裏を掠める。 しかし、それは、別の疑念によって――悪魔(?)の言葉によって――いずこかに払いのけられた。 「無駄な抵抗だろう。しなくていい我慢だ。自分の心を押し殺そうとするのは。愛でも、憎しみでも、諦めさえも──そんなことをすればするほど、強さが増すだけなのに。そして、最後にはそれは外か内に向かって溢れ出す。へたをすれば自我崩壊。おまえの望みは、あの男のためにもなることだ」 「…………」 「あの男は臆病らしい。自分の愛する者を失うことを極度に怖れている。母親やら師やらを殺したのは自分だと思いたがって、自分を責めることに喜びを感じてさえいるのではないかと思えるほどに、あれは──」 瞬は、彼の口にする今更ながらの御託を遮った。 そんなことは、瞬がこれまでに幾度も考えてきたことだった。 そんなことは、もう聞きたくもないし考えたくもない。 代わりに、瞬は、彼に尋ねた。 「氷河は何に抵抗してるの。何を我慢してるっていうの」 ――『それは、おまえへの愛だ』とでも言われたのなら、瞬は“悪魔”の誘いになど乗らなかったかもしれない。 瞬は、自分で、氷河の心を溶かしてやろうと思っていたかもしれない。 だが、“悪魔”の答えは、そんなありふれた綺麗なものではなかった。 「決まっているだろう。人間が抵抗するものなんて、倫理や摂理に反する欲だけだ。あの男は、おまえを抱きたくて、気が狂いそうになってるんだよ」 瞬は、悪魔の誘いに乗った。 |