■ 胡人奇遇記 あとがき ■





久しぶりです、パターン研究。

えーと、掲示板にも書かせていただきましたが、今回の話は、やおいのパターンというより、物語のパターン。

タイトルに借用させていただいた『渭塘奇遇記』始め、夢の中で恋する二人が会って云々……という話は、広い世の中では結構見かけるパターン話なのじゃないかと思います。
恋人同士に限らず、複数の人間が同じ夢を見る……というのが、そもそもありがち。
お釈迦様が生まれる時には、お釈迦様のご両親がおんなじ夢を見たといわれてますし、逆に、誰かが亡くなる夢を親しい人間たちが見る……というのも、よく聞く話、よく読むパターン。


ところで、私は、『やおいのパターン』にのっとった作品を発表するために、この黒い畑を作ったわけなんですが。
この21世紀、真にオリジナルな話を書くことは、よほどの天才に恵まれている人でない限り、ほぼ不可能なことだと、私は思っています。
誰がどんな話を書いても絶対に、その話に似た設定、似た展開の話は、既に他の誰かが書いている。
オン・オフ、プロ・アマを問わず、今の世の中に新作として生まれ出ている小説・マンガ等は、そのすべてが“何かに似たもの”です。
そんな中で、汎用性や普遍性に秀でた本当に良いものだけが、皆にその価値と魅力を認められて生き残り、黄金パターンとなる。

ですから、パターンにのっとった話というものは、ある意味では、『認められることが約束された話』『成功して当然の話』でもあります。 
しかしながら、それがなぜ伝統あるパターンとなりえたのかを理解しないまま使うと、とんでもない失敗をしでかして人様の失笑を買う恐れもある、危険な手法でもある。
パターン話の成功と失敗は、僅かな力加減でどちらに傾くかわからないヤジロベエ。
成功と失敗のどちらに傾くかは、おそらくちょっとしたセンスの良し悪しが決めるんでしょうね……。
(で、“良いセンス”を持っていない私みたいなやおい書きが、開き直って『黒い畑』なんてもの作り、ギャグにしてしまうわけだ、黄金パターン)


どーでもいいことですが、世の中には、『ヤジロベエ』を知らない子供が増えていそうな気がします……。
ついでに言えば、『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛と喜多八がほもだということを知らない人も多そうだなぁ……(←阿呆)。



で、今回の話ですが。
すみません。後編で、実物の氷河が瞬ちゃんの前に登場したシーン、私は思わず彼に、
「瞬、おいでっ!」(← ファイブスターストーリーズのレディオス・ソープ風に)
と言わせたくて悶絶しておりました……。

(あの〜。書いてることに、まるで脈絡がないんですけど……?)
(うん、そだね) 
(…………)






◆◇◆ とりあえず、今回のパターンポイント ◆◇◆

夢ネタ
瞬ちゃんの(お馬さん等への)横座りって、ワタシ的には黄金パターンなんですけど、世間様ではどうなんでしょう?
逆パターンというパターンですが。

氷河『よかったか?』

瞬『氷河、気持ちいいの?』
瞬ちゃんが純真無垢で、その手のことを何も知らない(これは、ちょっと古い時代のパターンかもです)
で、初めてでも、やっぱり、瞬ちゃんはいい気持ちv


くらい、かな?





◆◇◆ 今回の反省点 ◆◇◆

シリアスモードを最後まで保てなかった……。
 どうして、私はこんなにも根性無しなんでしょう……?

確か、当初の予定では、ついに長安の王宮に現れた氷河と、これまで自分を慈しんでくれていた兄の間で(シリアスに)苦悩し、最後には、真の意味で自立したオトナになることを望み、暮らし慣れたお城も身分も捨てて、氷河と新しい世界へ旅立つ──予定だったんですけども、瞬ちゃんは。

なのに、どーしてギャグになるの。
どーして、氷河が、『瞬ちゃん、おいで!』なんて言ってるんだ!(かろうじて言ってません)
私は、どう考えても、乗せるはずだった予定の電車に、氷河と瞬を乗せ損なってしまったようでございます。
あああああ;


えーと。
私は、ものを書いている時に、自分のシリアスモードを保つのが、とてもとても苦手です。
(現実に)目が覚めてしまわないように細心の注意をはらい、絶対に正気に戻らないように気をつけて、どっぷりそっちの世界に浸れそうな曲をエンドレスで流しまくりながら、シリアス話に挑んでみたりするのですが、まあ、十中八九、無駄な努力。

ふとした弾みで正気に戻り、自分の書いているものを見てみれば。
クサいセリフに、ベタな展開、瞬ちゃんはぽろぽろ泣いてるし、恥ずかしい声で喘いでる。
おまけに、あろうことかあるまいことか、氷河や一輝がマトモそう。

「これは違うだろ!!」
と、自分で自分に突っ込んで、そそくさぱっぱとギャグ路線への切り替え完了。

私は、こんな自分が憎いです……。



シリアス話をたくさん発表できてらっしゃる方々は、いったいどうやって、自分を長くシリアスの次元に留め置いておけるんでしょうね。
そこんとこ、真剣に知りたいと思います。


あとですね。
作品の送り手が、自分のことや自分の作品のことを『下手だ』『つまらん』等々言うのは、本気でも謙遜でも、しない方がいいということはわかっているんですが、あえて言わせていただくと。

私がシリアスモードを長く保てない原因の一つは、自分がへたっぴなことが自覚できちゃってるからなんですよね。
『こんな下手っぴのくせに、自分の世界に浸っちゃって〜』
と思われるのが恐くて、ついついシリアスからは逃げ腰になってしまう。
ほんとは、ギャグの方がずっと技量を問われることはわかっているのに、こればっかりはどーしよーもありません;
おかしな話でございます……。






◆◇◆ 今回のおまけ ◆◇◆

〜やおい書きの苦悩と悲哀〜

黒い畑では、これまで、やおいのパターンについて、色々と考察・試作してまいりましたが、今回は、『ポルノグラフィー』というものについて、御託を並べてみたいと思います。
しばし、お付き合いくださいませ。


『ポルノグラフィー』。
それは、いうなれば、究極の『やおい』です(山なし落ちなし意味なし、のね)。
そして、『(男性同士の性行為を伴ったラブストーリーであるところの)やおい』は、ある意味、女の子向けの『ポルノグラフィー』でもあると思います(絶対にイコールではありませんが)。

で、スティーブン・マーカスが、ポルノグラフィーについて、なかなか興味深いことを言っておりますので、一部転載。
曰く。


大抵の文学作品には、始まりがあり、途中があり、終わりがある。
しかし、大抵のポルノグラフィーには、それがない。
一般的な好色文学作品には、通常、物語を始めるための粗雑な言い訳のようなものはあるのだが、しかし、ひとたび物語が始まってしまえば、あとはもう先に進むばかりで、終わりはどこにもないのである。
この反復のための推進力こそ、ポルノグラフィーの持つ、最も著しい特徴のひとつである。
理想的なポルノグラフィーは、永久に先に進まなければならないのだ。



この一文を読んだ時、私は、その脳裡に、ゴールのない長い道をただひとり、孤独に耐え、いわれのない非難に耐えて、それでも自分の選んだ道をひたすらに歩み続ける、孤高の哲学者のごとき やおい書きの姿を思い浮かべました。


うん……。
やおいなんて、まず、その行為自体がパターンですよ。
『入れて出してイく』という基本形があり、もちろん色々とバリエーションはあるでしょうが、結局はその繰り返しです。
入れて出してイッて、入れて出してイッて、入れて出してイッて。

その繰り返しを書くために、その繰り返しを人様に(書き手さんによっては、自分自身も?)楽しんでいただくために、やおい書きは、あの手この手を使って、やおいを書き続けているわけです。
入れて出してイッて入れて出してイッて入れて出してイッて──その、永遠不滅にして黄金のパターンを永遠に。
シーシュポスが決して報われることのない永遠の苦難に耐えるがごとく、やおい書きはやおいを書き続けるのです。
自分の愛するキャラへの愛(と欲望)だけを支えにして。

ああ……これほど強く、悲しく、美しい存在が、他にあるでしょうか!?
私は、世界中のやおい描(書)きさん方を、心の底から愛し尊敬いたします。
そしてまた、自分がそんなやおい書きのはしくれであることに、大いなる誇りを覚えます!


あー……。
ここまでの文章を、ギャグだと思ってはいけませんのです。
やおい作品を、次々と生み出し続けるやおいかきさんたちは、実に偉大だと思います。
私が存じあげている限りの氷瞬やおいかき様方の作品を思い浮かべて、その情熱と愛とご苦労に思いを馳せ、私、ちょっと泣いちゃったわ。
(繰り返しますが、この文章はギャグではありません)(と、注をつけるから、いかんのか;)





◆◇◆ 今回の不幸 ◆◇◆

今回の話の舞台の『“漢”の国』。
これは当然、『“かん”の国』であって、『“おとこ”の国』ではありません。

──と注意書きをつけている私自身が、ついつい『おとこの国』と読んでしまう、この不幸。

『漢』と書いて『おとこ』と読む──。
このフレーズを流行らせた人は誰なんですか、いったい!




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