周囲には白い霧が立ち込めていた。 正しくは、霧に似たものが。 瞬は、自分がどこにいるのかがわからず、初めて来たその場所にぼんやりと立ち尽くしていたのである。 ふと気が付くと、見知らぬ男がひとり、いつの間にか、瞬の前に立っていた。 いったい誰だろうと思うより先に、彼が、瞬に名を問うてくる。 「名を教えてくれ」 「瞬です……あの……」 瞬は、人に名を尋ねられるのは、これが初めてのことだった。 本来、瞬と言葉を交わすことのできる人間は、瞬の名を知っていなければならない。 漢の王室の太子の名前を知らない人間は、そもそも宮中に――それも、瞬が住んでいるほど奥まった場所に――足を踏み入れることは許されないはずなのだ。 「瞬……。生国は漢だな。どこに住んでいる? 長安か?」 「はい、長安の王宮に。あの……」 「長安の王宮か。ということは、信じたくないことだが、おまえは、あの鼻持ちならない男の身内ということだな。歳は?」 見知らぬ男は、矢継ぎ早に、瞬の素性を尋ねてくる。 「14です。あの、ここはどこですか?」 瞬は、慌てて、返答の中に、自分の疑念をつけ加えた。 彼が何者で、自分がどこにいるのかを知りたいのは、瞬の方だったのだ。 「わからん。だが、こうしておまえに会えたのは、おそらく神の計らいだ。俺は、おまえを初めて見た時から、その姿を一瞬たりとも忘れられずにいたんだから」 「いつ、どこでお会いしたんでしょう? 僕は……」 瞬はまだ、成人していない。 子供として、後宮で女たちと暮らすことが許されており、実際、滅多に後宮から外に出たことはなかった。 父母は既になかったが、兄の皇帝の庇護の下で、王宮の外のことは全くと言っていいほど知らされることなく、平穏な日々を――別の言い方をすれば、退屈な日々を――過ごしていた。 色事よりも戦や政の好きな皇帝の後宮は、帝の寵を競っての女たちの争いもなく平和で、瞬は女官たちには可愛がられていた。 瞬が会うのは、兄を除けば、ほとんど後宮の女官たちばかりだったのだ。 「2ヶ月前」 「2ヶ月前?」 2ヶ月前というと、西域からやってきた胡人の軍が国境を侵しているという報を受け、兄帝が軍を率いて西の国境に遠征していた頃である。 胡人たちは、その機動性を生かして、漢の軍をからかうだけからかい、そのまま立ち去った――と、瞬は聞いていた。 漢の軍の10分の1にも満たない頭数の胡人の軍は、まさに神出鬼没で、大きいばかりの漢軍は、その素早さに翻弄され、戦いにもならなかった――らしい。 兄の身を案じていた瞬は、その遠征が戦らしい戦にならなかったことを喜んだのだが、軍を率いていった当の兄自身は、融通が利かず硬直しきっている自国の軍に、すっかり腹を立ててしまった――のだと、瞬は、女官たちに冗談めかした口調で教えてもらった。 瞬の兄は、その手のことを決して瞬に語ろうとはしないので、王宮の外での出来事に関する情報源を、瞬はもっぱら女官たちの噂話に頼るしかなかったのである。 |