後宮内が――というより、漢の王宮内が――ざわついていた。 「胡の軍が迫ってきているとか――」 「帝も軽はずみな約定を――」 「胡人が街亭の村にいるのを見た者がいるという噂を聞きました」 「街亭の村? 長安までほんの7、8日の距離ではありませんか!」 「なんでも、胡人というのは、髪の毛が赤くて、肌は白く、鼻が高くて、地獄の閻魔大王のように大きな身体をしているんですって」 「そんな化け物に、漢の王室が蹂躙されるなんて、とんでもないことだわ!」 「それもこれもすべては帝の……」 後宮の女たちの情報伝達の速度は、恐ろしく速い。 その精度と信頼性には多分に問題があったが、政治的・表向きの建前を交えない分、彼女たちが伝え合う噂話には、本質を突いている部分もあった。 瞬が求めると、彼女たちは大抵、 『ただの噂なんですけどね』 という前置きをつけて、彼女たちを色めきたたせている噂話を瞬に語ってくれていた。 ――これまでは、いつも。 が、今回の胡軍侵攻のこととなると、彼女たちは一様に瞬の前で口をつぐむ。 「太子がご心配なさるようなことでは……」 どの女官を捕まえてみても、答えは同じだった。 それは、軽々に子供に話して聞かせられる類の問題ではない――ということなのだろう。 胡軍侵攻はそれほどの――漢王室の存亡に関わるほどの――重大事になっているのだ。 他国の軍が、この中原の国の都に迫ってくるなど、それこそ高祖劉邦が秦国の息の根を止めた時以来のことなのだから、平生には少々軽率なところのある女官たちが、いつになく慎重な態度をとっているのも、当然のことといえば当然のことだった。 だというのに。 「氷河……」 その名を唇にのぼらせると、瞬の脳裏に浮かぶのは、碧玉のような瞳が燃えている様だった。 あの青い瞳に射すくめられ、身動きもできなくなった瞬の身体を抱きしめる氷河の腕と胸。 何よりも瞬の中に入り込んでくる熱いもの。 他の、もっと大切なことを考えようと思うほどに、瞬の心と感覚は、氷河自身へと向かっていく。 胡軍の侵攻、兵や民たちの受難、国と王室の行く末、氷河の身の安全――。 思い煩うべきことは、他にいくらでもあるのだ。 それでも、瞬の心を捉えて離さないものは、氷河の声や体温や肌の感触――夢の中で氷河によって与えられた、ありとあらゆる感覚の記憶ばかりだった。 寵姫や寵臣のために国を滅ぼした過去の帝王たちの気持ちが、今の瞬にはわかりすぎるほどにわかった。 それは、彼等自身にはどうすることもできない、どうしても抗うことのできない力に流されてのことだったに違いない。 瞬の身体の中には、まだ氷河が残っていた。 それが、内側から、瞬を食い尽くそうとしている。 もう一度、一刻も早く、氷河を、自分の身の内に、自分とは別の存在として感じることができなければ、自分は自分の内に残る氷河に侵し尽くされてしまう――。 瞬は、そんな不安に捕らわれていた。 |