よんかげつ振りの、パターン研究でございます。 でも、パターン研究に入る前に、今回の話のタイトルの意味をちょこっと。 『サンサーラ』というのは、サンスクリット語で、『流転』『廻り巡ること』を意味する言葉です。 昨今では専ら、仏教で言うところの『輪廻』『輪廻転生』の意味で使われているようです。 これは、ヒンドゥー教にもある思想で、ヒンドゥー教では、神でさえ逃れられない、救われない宿命──みたいな感じで使われてますね。 今回の話のタイトルは、もちろん、『サンサーラ』じゃなくて日本語にした方がわかりやすかったわけなんですが、どの言葉を使うべきかを決めかねまして; 『輪廻』というには、瞬ちゃんが誰かの生まれ変わりなわけではないですし(少なくとも、そうだと明言はしてない)、『流転』となると意味が広すぎるような気がしますし、『宿命』じゃあ、タイトルとしては大仰すぎ。 それで、結局、それら全ての意味を全部含んだ『サンサーラ』でいくことにいたしました。 ご了承くださいませ。 さて、その『輪廻転生』、『サンサーラ』。 この『輪廻転生』それ自体が、ものすごーい黄金パターンだということには、どなたにも異論のないところだと思います。 『前世で結ばれない恋人同士だった』、『前世の記憶に導かれて、云々』という物語は、やおいに限らず、全世界津々浦々で繰り広げられている、お決まりのパターン。 有名なところでは、『黒いオルフェ』とか、そうですよね。 さすがに、その黄金パターンをヒネリもなくそのまま使ってしまうわけにはいかないので、今回の話は適度にパターンから外れたものにしていますが(後述する『あなとな』を参考にして)。 すなわち、瞬がキアラの何かなのかどうかははっきりさせてないし、氷河は誰かの生まれ変わりというのじゃなく不死。ラストに現れた氷河も、本家氷河と関わりがあるのかどうか不明。『輪廻』というのならむしろ、この話の中では語られない、その後の瞬こそが、輪廻の始まりなのかもしれない──てな感じに。 何にしても、この『輪廻転生』、本当に応用のきく素晴らしい黄金パターンだと思います。 前世と同じ道を辿るか、前世で叶わなかった願いを果たすか、その前世にしたって、何人いてもいいわけですから(しかも、人間でなくたっていい)、無限にストーリーを作ることができます。 とはいえ、『今生で叶わなかった願いを、来世に繋ぐ』が ありえる世界は、今を必死に生きることの妨げにしかなりませんし(読み手さんにそう思わせてしまうし)、『現世で幸せになっても、来世ではどうなるかわからない』世界において、真のハッピーエンドはありえない。 実に料理の難しい黄金パターンなのでございます、輪廻転生。 (決して、自分の未熟の言い訳をするわけではありませんが♪)(←してる) |
■ | 輪廻転生(かもしれない) | |
■ | いわゆる宿命(なのかもしれない。あるいは、その始まり、なのかもしれない) | |
■ | もちろん、初めてなのに瞬ちゃんは気持ちいい | |
■ | 目は口ほどに ものを言い | |
■ | 私の感覚では、ベンツ & マンションの最上階 というのが既に、ものすごーい黄金パターンなんですが、そこいらへん、一般的にはどうなんでしょ?
つまりは、要するに、金に困っていないということですね。なにしろ、生活に追われていては、恋をしている暇がありません。 (してみると、氷の国の氷河って偉大なるパターン破りなのかもしれない) | |
■ | 身体は正直(いや、普通は氷河のセリフだと思うんですけども)
くらい、かな?
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■ | エロくない! | |
これは、今回だけのことじゃないんですけども〜;
冗談抜きで、最近(もともとそうだったような気もしますが)えっちシーンが書けません。というか、具体的描写のあるえっちシーンが書けなくなりつつあります。 その手のシーンは、私は、昔っから、いかに具体的描写をせずにごまかすか──を考えながら書き続けてきましたから、『“そもそも書いたことがない”=“書けない”』なのかもしれないんですけども。 だいたい、私の書く文章には色気が欠けてます。 これは、まじで致命的。 いわゆる好色文学に慣れ親しんでいないせいもあると思いますが、えっちシーンをメインにすることに躊躇いがあるんですよね、私。 その手のシーンはあくまでおまけかサービスでしかなく、それとは別に、それらしい主題を用意しておかないと不安になる。 私の中には、多分、ものすごいエロを書きたいと思うキモチと、エロ書きだと思われたくないキモチの両方が、同じくらいの力を持って存在しているような気がします。 そして、その葛藤が、私のエロ書き作業を妨げる。 もっと、すかーっっ☆ と、脳天も青空も突き抜けるようなえっちを書いてみたいのに〜っっ;; これが、私のエロ書きにおける限界なのかーっっ!? ──所詮、私のエロ心は理性(世間体とも言う)には勝てないのでしょうか。 ニーズはあると思うんですけど、応えることができません。 それがとっても悲しいです、くすん……。 |
〜でも、冒険心は必要よね〜 | ||
掲示板でも書かせていただきました通り、今回の話の元ネタは、ドラマ『あなたの隣にだれかいる(2003年10月期フジテレビ系で放映開始)』でございます。 ↑ こちらのリンク先が消えた時のために、簡単なあらすじを書いておきますと。 (ちょっと薄めに書いておきますね。未視聴の方で、この先視聴する機会がある方もないではないと思うので) 昔、とある貧しい青年が、お姫様に恋をしました。でも、身分違いの恋ですから、青年はお姫様に近づくことができません。ところが、この青年、お姫様を思うあまり、一匹の蟲になって、お姫様の祝言の日に、その寝床に忍び込んでいったのです。で、お姫様の夫になる男に踏みつぶされちゃった; この蟲男さんが、殺されるたびに蘇る不死の身体を持って、お姫様の子々孫々にストーカー行為を繰り返すことになります。 お姫様の娘に自分の子を産ませ、殺し(生まれた子じゃなく、産んだ母親の方をね)、更にその娘(=自分の娘)に娘を産ませてはまた殺し──を繰り返してきた模様です。 で、最後には、とある事件の謎を追っていて蟲男さんに辿り着いた元判事に退治される──というお話でした(──で、いいのだろうか? 実はちょっと自信ないです;)。 とまあ、わざとらしくあらすじを伏せてみましたが、ある意味、あのドラマは、あらすじや結末がわかっていても、その奇妙奇天烈にブッ飛んだ演出で、十分に楽しむことのできるドラマでした。 この『あなとな』、(私は途中から見始めたので、実は後半5話以降しか見ていないんですが) ドラマの前半40分はごくごく普通のファミリードラマ、最後の2分で、B’zさんがカバーした『勝手にしやがれ』が無意味に激しく鳴り響き始め、とんでもない急展開ー!! というのを繰り返したドラマでした。 いつも、ものすごく訳のわからないラスト(ポリタンクぶつけられて人が殺されてみたり、ごく普通の民家の廊下の向こうから、ガスマスクつけた男が無意味に不気味に歩いてきたり)で、私は当然、『この続きはどうなっちゃうのー!?』と1週間心待ちするんですが、翌週には、『いったい先週のスリリングなラストは何だったわけ!?』と思うくらい、ほのぼのしたファミリードラマや不倫ドラマが繰り広げられるのです。 なのに、またラストの2分には、『勝手にしやがれ』が鳴り響き、私の心臓ははらはらどきどき。 かてて加えて、ミスリードのためにしても多すぎる無意味な伏線、最終回を迎えた後も、解けていない謎多数。 ドラマと言えば大河ドラマ、せいぜい年末年始の時代劇スペシャルくらいしか見たことのない私には、実に実に衝撃的、かつ わからんちんな演出でした。 でも、それがめちゃくちゃ面白かった。 細かい矛盾なんか、全然どーでもよくて。 はらはらできて、どきどきできて、次回が楽しみで、週末が終わることが嬉しくて(放映は火曜日でしたから)。 本当に、純粋に楽しむためのドラマ、そして実際に楽しめたドラマでした。 もちろん、B級エンターテイメントに徹しているとはいえ、『あなとな』にもちゃんとしたテーマ(もどき)はあったと思います。つーか、ある振りをしていたと思います(“振り”が悪いというわけじゃなく)。 自分の愛した姫に執着し、子々孫々まで、ほとんど無目的と言ってもいいくらいにつきまとい続ける蟲の妄執(蟲の立場になると、それも結構切ない)、その男を殺す元判事が、ラストで言う、 『死とは、生きるための糧だ。人は、死ぬからこそ、精一杯に生きようとする。〜中略〜死ぬことのないおまえは生きてなどいない』とか、 蟲男さんが言う、 『人が死ぬのは心臓が止まる時じゃない。脳が止まる時でもない。人が死ぬのは、忘れられた時だ。愛した人のことを忘れずにいれば、その人はいつまでも生き続ける。記憶の中でいつでも会える。だから、死ぬことは、少しだけサヨナラすることだ――』 ──とか、それらしくシリアスで思わせぶりなセリフもあることはある。 しかし、死なない蟲男に、 『死ぬことは、少しだけサヨナラすることだ』 なーんて言われたって、 『そりゃあ、アナタはすぐ生き返れるんだもんね』 てなもんです。これは、目一杯シリアスの仮面をかぶった大ギャグでしょう。 (そーいや、↑ 『人は二度死ぬ』って、誰の言葉なんでしょう? 『トーマの心臓』までしか遡れない私です;) でも、まあ、そのあたりが、メインのテーマなんだと思います。 あと、ありきたりにも『家族の絆』みたいなものとか。 でも、そんなんどーでもいいって気にさせてくれたんですよね、あなとな。 学生の頃の国語の授業が癖になり(?)、本を読んでも映画を見ても、まずその作品のテーマを考え、作者の主張を探ることが、作品を鑑賞することだと思い込んでいた私に。 とにかく、死なない男がいる。そいつが超アヤしくて、訳のわからんことばかりする。 だから、それを楽しめ! ──というドラマだったと思います、あなとな。 なので、私も楽しむことにしたわけです。 やおい物書き的に。 で、やおい物書きの楽しみ方 ↓ 例えば、今回の話の、3話から4話への続き部分。 いつもの私なら、『氷河が瞬ちゃんの手に落ちた』で、『続く』にするところでございます。 構成的にも、それが正しいと思う。 でも、連載もので、次回を読ませようと思ったら、そんなとこで終わっちゃいかんのですね。 無意味でも不自然でも、次の事件のアタマを持ってこなくちゃ。 もちろん、私は、失敗してます。 自分でも、『氷河が瞬ちゃんの手に落ちた』とこで一度切った方がいいと思う。ほんとに思う。 ラストまで書き終えた今となってはますます、構成変えたいと思います。 どうしたって、3話ラストの展開は唐突すぎるもの。 でも、それをやってしまったのが『あなとな』でした。 作品の出来よりも、視聴者を楽しませることを優先させたその潔さに(それは、もちろん視聴率稼ぎにも有効なことでしょうが、それすらいっそ潔いです。徹底してB級!)、私は感動したのです。 (だから、上述の『今回の反省点』も出てくるわけですね) はー。 何はともあれ、楽しませていただきました。 あなとな、ご推薦くださった黒たれさんに感謝感謝v です。 どうもありがとうございました! あ、ちなみに、『あなたの隣に誰かいる』全10話。 最高視聴率は最終回がマークしました。 さもありなん。 |
【 2004/03/24 追補 】
■『人は二度死ぬ(肉体の死と忘れられる死と)』の元ネタは、どうやら、寺山修司の『誰か故郷を想はざる〜自叙伝らしくなく〜』のようですね。 同著に、 私は、たぶん二度死ぬのである。 はじめの死は、私にとって「死を生きる」ことであり、世界との水平線をべつべつにすることに他ならないが、二度目の死は万物の終焉なのである。 同級生の自殺や、アルコール中毒の父の死、草刈鎌で手首を切って死んだ古田完先生らの死がどことなく官能的でさえあるのは、「死を生きている」ものへの羨望を、生きのこっている私の心の中にとどめることが出来たからである。 ──というくだりがあるようです。 |
| 身体がなくなるのに、あるいは、めちゃめちゃに破損するのに、どーして氷河は蘇えれるのだ? 瞬のパパさんはどうなった? 瞬が死ねなくなったのは、いったいなぜ? ──というような素朴な疑問の答えを、真面目に追い求めてはいけません。 B級作品というものは、そんなふうに、細かいところばっかり気にして重箱の隅をつつくマニア的な接し方をしてはいかんのです。 そんなものは、作品自体を楽しむこと 及び その作品の主題を考える時の障害にしかなりません。 理由はない。 この世界では、 この話も、ですから、 よろしくお願いいたします〜v |