■ сострадание〜ソストラダーニエ〜 あとがき ■





なななななんと、ななかげつはん振りのパターン研究でございます; さぼりすぎです、すみません。
しかも、その7ヶ月半の間、私が清らかな日々を過ごしていたかといえば、決してそうではないところに、やおい人間の悲哀を感じ、ますます申し訳ない気持ちになるところでございます。
ともあれ、いってみましょう、今回のパターン研究。


今回私がとりあげましたパターン――というか、私が挑戦しようとしたものは、『リバ及び3P』(うわぁ、自分で書いてびっくりしちゃった)。

蛇足ながら説明させていただきますと、『リバ』はリバーシブルの略。
本来はほもより女性同性愛者の方々に使われていた用語らしく、ネコ(女役)でもタチ(男役)でもできちゃう人のことだったようです。チューリップ畑でいうなら、氷河×瞬も瞬×氷河もありな感じ。
ただ、やおい界におけるこの表記は、使う方によって定義が異なるらしく、肉体的には瞬ちゃんが受けなのに、精神的には瞬ちゃんの方がリーターシップをとっている場合にも、『瞬×氷河』というような記述をするサイトさん・同人誌もあるらしいので、注意が必要でありましょう。

『3P』の方は、『 three persons 』『 three people 』の略。
文字通り、3人で性交を行うこと。
『トロイズム』という呼び方もあるようです。トロイの木馬遊びのことではなく、おフランス語のアン・ドゥ・トロワ・カトルの3番目(言われなくてもわかります)。

リバは、当然のことながら同性愛用語。やおいならではのパターンなわけです。
が。
皆様ご存じの通り、私は、一棒一穴・受け攻め完全固定者(すごい肩書きだな、しかし)で、リバ 及び 逆 及び 3Pは書けない不器用&不粋者。受け攻め固定者というのは、結構不便なものでございます。
で、そんな私が、リバ・3Pのパターンに挑戦しようと思ったら(そんなこと、どなたも私に期待していなでしょうし、事実、どなたかに希望されたわけでもないのですが)、こんなやり方しかなかった……というだけのことだったりします。

今回の話でリバーシブル行為を頑張ってくれているのは、氷河でもなければ瞬ちゃんでもなく、畏れ多くも冥界の王、死を支配する神、ハーデス様。
「お疲れさまでした」と言うべきか、「役得したね」と言うべきか、その判断には大いに迷うところでありますが、やっぱ後者かな。

私の(あくまでも私の)星矢世界では、キャラ全員が、本来の性的志向はノーマルです。相手が瞬ちゃんの時にだけ、本来ノーマル志向である方々も とち狂うことがある──みたいな感じ。でも、みんな本来はノーマルな方々なので、とち狂う場合にも、彼等はあくまで男性の立場でとち狂います。
で、瞬ちゃんはというと(もちろん瞬ちゃんも本来はノーマル)、相手が氷河の時だけ、『受けでもいっかー』と思う。そんな感じです。
そういう私の星矢世界の中で、ハーデスは大変特殊な存在です。

受けOKな瞬ちゃんと合一している → 受けOKキャラ
でも、瞬ちゃんではない → 攻めキャラ

ハーデスのこの非常に特殊な設定が、彼を、私の星矢世界の中で唯一リバ可能なキャラにしているのです。
ハーデスという存在がなければ、私にはリバ話を書くことは不可能でしたでしょう。彼がいるからこそ、私にもこんな話が書けたのです。
(これをリバ話と言っていいのかどうかという問題はさておいて)

やはり特別なキャラなのですわ、ハーデスは。
うん。






◆◇◆ そういうわけで、今回のパターンポイント ◆◇◆

3P(といえるかどうか)
リバ(ハーデスが)
すべての現実を無視して瞬は気持ちいい(これは、チューリップ畑における改定不可の憲法です)
周囲のキャラがほもな二人を変だと思っていない(これもやおいのお約束)

今回のパターンポイントは、ストーリー展開ではなく設定の方ですね。





◆◇◆ 今回の反省点 ◆◇◆



氷河が変。


いや、本来氷河は変なキャラだと思うんですが、今回は『変』の方向性を間違えたような気がします。反省。





──って、それだけですか、自分?






◆◇◆ えっち書きの苦悩 ◆◇◆

あー……。
実は、今回の話は、『リバ・3P』の他に、ちゃんとした『やおい』を書いてみようという気持ちがありました。
『やまなし、落ちなし、意味なし』のやおい、です。いわゆる、やってるだけな話。
実際、えっちしーんの割合はいつもより多いと思います。
なーのーにー。

なぜ私の書くえっちしーんは、こんなにも色気がないのでしょう。
どうしてアヤしく隠微な雰囲気になってくれないんでしょう。
私は、やおい書きとして、何かどこかが根本的に間違っているのではないかと思います。
(建前上は)超健全ストーリーであるところのアニメ星矢を見て、あれだけモーソーできる私が、自分の書く話ではちらっともアヤしい気分になれない。
えっちしーんを書いている時ですら(書いている時こそ)、すごく冷めてる。

↑ これ、正しいやおい書きの姿勢ですか?
他のやおい書きさんもこんなふうですか?

というか、私は以前どこぞのサイトさんで、「自分の書く話で抜ける(By女性)」と豪語するやおい書きさんを見たことがあるのですが、えっちなお話を書かれる方は皆さん、そんなふう? それくらいじゃないと駄目? あー、気になる〜;

表の畑用の話を書いている時には全く気にならないのですが、黒い畑にくると突然これが気になり始めます。
何といいますか、本音を言わせていただくと、私はえっちな話が書きたいわけではないんです。
読んでくださる皆様にアヤしい気分になっていただきたいわけでもない。
ただ瞬ちゃんに気持ちよくなってほしいというか、瞬ちゃんが気持ちよさそうに見えてほしいというか、そうでなかったら私が氷瞬やおいを書く意味がないというか。

えっちしーんを書く時だけは、私はいつも氷河になった気分。
「瞬は気持ちいいんだろーか」が気になって、そうなるためになら、ほんとは「自分は突っ込んで出せればいいや〜」なのだとしても、色々勉強だってしちゃう、面倒な手順も踏みます、だからお願いキモチよくなって! なのですね。

……それがいかんのでしょーか、もしかして?






◆◇◆ ボーヴォワールかく語りき ◆◇◆

『第二の性』及び、その冒頭の文章「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」で有名なシモーヌ・ド・ボーヴォワールが言っています。

「本来のセックスの場合、自分の喜びが相手の喜びになる確信を持てるので、極端に言えば、人は相手の喜びについて意識する必要がなくなる。自分自身の望みを自分の行ないの素直な基準にすれば、自分の望んでいることこそが、不思議に相手の望んでいたことになるのだ」

これは、本当に素晴らしいというか、ほとんど夢のセックスだと思います。理想の極み。
で、理想のようでありながら事実もかなりの部分でそう。
へたくそでも、好きな相手なら気持ちいいし、どんなテク持ちでも、それが嫌いな相手なら、そもそも触れられることからして気持ち悪いです。

ウチの瞬は氷河が大好きなので、(私がえっちしーんをうまく書けないせいもありますが)いつもこの路線。今回の話なんか、もろにこれです。相手が氷河なら、ウチの瞬はそれでいいんです。氷河ならヘタでもキモチいい。触れ合っている相手が問題。イイかワルイか、すべてを決めるのは、瞬の主観。

氷河はというと、彼自身は男性生理に則した性交ができているわけですから、まあ基本的に気持ちよくならないことはない。なので、彼は、自分の気持ちよさより瞬ちゃんの気持ちよさの方を気にする。
我が家には、
「俺にされてるんだから、瞬は気持ちいいはずだ」
というところまで達観できてる氷河もいれば、そこまでいけてない氷河もいます。

理想はもちろん、達観できている氷河なわけですが(だからといって、瞬ちゃんへの気配りは忘れてほしくないですけども)、ここに問題がひとつ。

理想のえっちは、(多分)読んでて面白くないのです。

理想のえっちには、ドラマもなければ葛藤もない。美しい理想が具現されているだけ。
では、やおい書きはいったいどうすればいいのやら。

ああ、やおいの道は長く険しいです……。






◆◇◆ 今回のおまけ ◆◇◆

えー、皆様ご存じの通り、私は、話のタイトルをつけるのがとてもヘタです。
今回も、適当(『いいかげん』じゃなくて、『適して当てはまっている』のテキトー)なタイトルが思いつかなくて、適当(『適して当てはまっている』じゃなくて、『いいかげん』のテキトー)なところから持ってまいりました。

『сострадание(ソストラダーニエ)』というのは、『苦しみや悩みを共にする心』の意のロシア語。
チェーホフの作品がこれを主題にしているというので有名です。

……というか、有名な語句だと思っていました。
なのに、日本語で検索して、ヒットするのがたったこれだけ
ロシア語ならこんなにあるのに!
これでいいのか、日本のチェーホフ研究! と、ちょっと不安になってしまった私です。


とか言いながら、私がこの単語を思い出したのは、チェーホフの死から数十年、社会主義体制下(特にスターリン時代)のロシアの文学史を、たまたま今回のネタを思いついた時に読んでいたからだったりするのですが;

画家・文学者・音楽家、すべての芸術家たちが表現の規制を受けたあの時代、自分たちの表現の場と表現の自由を守るために、ソ連の芸術家たちは、同じ不自由の中で活動する者同士で共鳴・共感し、団結・協力してそれぞれの芸術活動に励んでいたのだろうと、私は勝手に思っていたのですが(ソ連邦解体後、その手の美談・苦労話をたくさん見聞きしましたし)、かの国の芸術活動には、それとは別の一面もあったようで。

共に故国の未来を憂えて文学活動をする人間たちの中で派閥を作り(“鍛冶場派”だの“十月派”だの“峠派”だの)、作品を批評し合うならまだしも『戦闘的に攻撃』(と書いてあった)するってどういうことなんでしょうね。
それでなくても人間は誤解・錯誤する生き物なのに、そこに敵愾心や悪意を投入してしまったら、中傷・密告・陰謀・謀略が普通に蔓延していたあの国あの時代、芸術活動自体が停滞消滅してしまいかねない。
別に芸術家同士馴れ合う必要はないでしょうが、そういう時こそソストラダーニエの出番でしょう。争う必要はない。

そんな中で、自分の善意を守り続けるのは、とても難しいことだったんじゃないかと思います。
それは、よほど強くないとできないこと。
攻撃されたら反撃したくなるのが人間というものなのでしょうし、それは、ある意味では自分の心と命を守るための行為でもあるのでしょうから、一概に非難もできません(でも、そんなことに夢中になっていたら、自分の表現活動をしてる暇がなくなっちゃうでしょうに……とも思いますけど。本末転倒ですよね、それって)。
幸い、ロシアには自身の善意を失わずに表現活動を続けることのできる強い人たちがいて、かの国の文化は今でも地球上から消滅せずに残っているわけですけども。

いや、つまり、だから、そういう瞬ちゃん話を書いてみたいなー と思ったのです。
そんで、そんな瞬ちゃんの強さに触発されて人間的成長を遂げたジェーヴシキン氷河が、彼の許を去っていこうとするワルワーラ瞬ちゃんに、
「行かないでください! 私はあなたを愛していたのです!」
とかって叫ぶの。
あああああ、うっとり〜v

■注■ ジェーヴシキン&ワルワーラ : ドストエフスキー『貧しき人々』の登場人物。
超短いあらすじ。   ちょっと主観が入っていますが長めのあらすじ



すみません。モーソーに走ってしまいました;
えーと、そう、チェーホフの話をしていたのでした。日本のチェーホフ研究の心配(私が心配してどーなる;)。

まあ、そういう現状はわからないでもないんですけどもね。
チェーホフの作品って、ほとんどが、ヒーローらしいヒーローも出てこなければ、ヒロインらしいヒロインも出てこなくて、それどころか主人公らしい主人公すら出てこない。ごくごく普通の人間の集団がもそもそしているだけの話。そういうのって、日本では受けないんでしょうね(アメリカではもっと受けないに違いない)。

翻って、我等が『聖闘士星矢』は、チェーホフ作品の対極にある作品。
ヒーローになりえるキャラがてんこもり、彼等がそれぞれの闘いで主役になって闘います。その上、女神に女闘士にフツーの可愛い女の子とヒロインのパターンも網羅されている。
日本人に受けて当然です。

その、受けて当然の話を、わざわざほも話に変換して読み書き愛好するところに、日本の夢見るオトメたちの嗜好の複雑さを感じる私だったりするのでした……。





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