[V]






人間というものは、非力で愚かで壊れやすいものであるにも関わらず、どうしてここまで しぶといのか――。
若い神は、憎々しげに舌打ちをした。
「汚れる寸前だったのに……!」

否、瞬の魂はすっかり汚れきっていた。
確かに汚れていた魂が、今ではすっかり元の清浄を取り戻し、むしろ以前より澄み輝いている――。
太陽神を不快の極致に至らせたその事実が、冥府の王には甘美な満足をもたらしていた。
「これでこそ、余の分身。素晴らしい。人がみな瞬のようであったなら、余は人類の粛清など考えもしないものを……!」
底意を滅多に表に出さない冥府の王の言葉が、太陽神をますます不機嫌にした。

「あの氷河という男がいなかったら、瞬ひとりだけだったなら、汚れていたはずだ。あのでしゃばりの金髪の男さえいなければ、あの子供は、受け入れ難い現実に負け、逃げることで己れを保とうとする卑怯者になっていたはずなのに……!」
操ったはずの男に 自らの企てを台無しにされた若い神は、その悔しさを隠そうともしない。
甥の 子供らしい正直を、ハーデスは珍しく好ましいと感じ、微笑んだ。

「そなたの悪趣味な企みのおかげでわかったことがある。何も書かれていない板タブラ・ラサに価値はない。罪も汚れも知らず、それゆえ美しい感動も刻まれていない白い紙には、何の価値もない。無人島で一人だけで生きている人間は罪を犯すこともしないだろうが、清らかでもない――」
「あなたは何をおっしゃりたいのだ」
苛立った太陽神が、冥府の王に噛みつく。
彼に問われたからではなく――ハーデスはゆっくりと口を開いた。
「人はひとりだけで清らかでいるわけではない、ということだ。だから瞬が選ばれたのだ。罪を知り孤独を知り、それゆえに、清らかであり孤独ではないもの――」

愛されることはあっても愛さぬゆえに、その傲慢ゆえに“ひとり”である太陽神のために、ハーデスはそれ以上 言葉を費やすことはしなかった。
彼は、彼の選んだ者が期待以上に強く清らかであったことに、言い知れぬ喜びを感じていた。
ハーデスは、今は、孤独で哀れな神のことなど忘れていたかったのだ。

「……」
満足そうに深い笑みを浮かべる冥府の王を見て、アポロンは、人の世の粛清という彼の目的が果たされなかった時にも、彼は 今と同じように微笑むのではないかと思ったのである。
結局彼は、人間を見切り滅ぼすと言いながら、その偉業を妨げてくれる人間の出現を待っているのだ。
だが――だが、それでは、人と同じレベルのものに堕ちたアテナと大して変わらない。

人の世の粛清というハーデスの企ては失敗するだろうと、太陽神は思った。
冥府の王の期待通りに、それは失敗する。
そして、その後には、自分が――神であることの誇りを忘れていない太陽神が――人間に挑む番がまわってくるのだ。
その時、太陽神は人間たちに勝てるだろうか――。

神と人間。その力の差は歴然としている。
神が人間に負けることなどありえない。
そう自分自身に言い聞かせている間にも、氷河を許そうとした瞬の瞳、瞬を見詰める氷河の瞳が思い出される。
アポロンは、それらの清らかさが忌々しくてならなかった。

アポロンは傲慢ではあったが、愚かな神ではなかった。
もちろん太陽神は、虫けらのような人間たちに勝利する。
ただし孤独でない人間の力を侮ってはならないと、太陽神は、その胸に深く教訓を刻みつけた。






Fin.






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