『気が狂ってしまうような気がしたから、救いを求めて その名を口走ってしまったのだ』という言い訳が、皆に受け入れられたのかどうかをシュンは知らない。
ともかく、屈辱的な儀式は無事に終わった――と言っていいのだろう。
シュンは彼のミラノの公位継承権の喪失を、十数人の証人たちに正式に認められた。

「あれほど相性がいい二人を引き離すのは無体だと、伯父君に言われた」
シュンの兄がどこまで儀式の様子を聞いたのかは知らないが、彼は憤然とした顔で吐き出すように彼の弟に告げた。
『公位を継がせるのなら、私の血筋の者にと願っていた。それが叶わないのなら、独断に走りそうなそなたよりシュンの方にと思っていたのだが、シュン個人のためには、この方がよかったのだろう。あの子は恋をするために生まれてきた子だ』
ミラノ公はそう言って、シュンの兄にシュンを諦めるよう促してきたのだ。

「勝手にしろ」
他に言いようがなかったのだろう。
まるで投げ出すように、シュンの兄はシュンの恋を許して(?)くれたのである。
シュンの目的は、シュンの望み通りに達成されたと言ってよかった。
――のだが。


シュンは、兄にも伯父にも あの見世物の証人たちとも顔を合わせることができたのだが、肝心のヒョウガに会うことだけは恐かったのである。
散々乱れ喘ぎ、自力では歩くこともできないほど疲れ切ってしまった身体を介抱し館にまで運んでくれたのはヒョウガだったというのに、翌日 シュンはずっとヒョウガに会うことを避けていた。
シュンがやっとヒョウガと向かい合う勇気を持てたのは、あの歓喜の時から丸一日以上が経った翌日のことだった。

「僕、どうしてあんな……僕は自分がわからない」
ヒョウガはあんな浅ましい真似をした自分を軽蔑しているのではないかというシュンの懸念は 当然のことであったかもしれないが、無用のものでもあった。
てっきりシュンは恥ずかしがっているだけなのだと思い込み、心も身体も熟知し合った恋人に避けられていることに危機感すら抱いていなかったヒョウガは、やっと面会が許されたシュンの表情が暗く打ち沈んでいることに、軽い当惑を覚えることになった。
あれを喜ばない男がいるのなら、一度会ってみたいものだと思う。

「見られるというより、見せつけるだったな。見られていないと快感を得ることのできない人種というのがいるそうだが、おまえはそれか?」
もちろんヒョウガは、シュンの気持ちを安んじさせるために、冗談でそう言った。
シュンが、真顔でヒョウガに反駁してくる。
「あそこには、ヒョウガと僕しかいなかった! ヒョウガしか感じなかった……!」
「ああ、そうだ。二人だけだったな」
シュンがそう思いたいのなら、その方がいい。
シュンの主張をすぐに受け入れ、ヒョウガはシュンを抱きしめた。

「昨日の今日で、またおまえを抱きたいといったら、おまえはあきれるか」
ヒョウガに問われると、シュンは黙ってヒョウガの胸に頬を預けてきた。
あの行為を恐れる気持ちは以前より強くなっていたし、再び あの狂気と狂喜の中に我が身を投じることに不安を感じないわけでもなかったのだが、シュンは既に正気と狂気の境界に立つことの快楽を知らされてしまった。
それは、もし二度とあの歓喜を経験することはできないと言われたら、絶望のあまり生きることを放棄したくなるような、強い力と魅力を持ったものだった。

「おまえを離したくないと思っていたが――。おまえの中に迎え入れられていた時には、俺はおまえを離したくないのではなく、おまえから離れられないのだとわかった」
ヒョウガがシュンの髪に唇を押しつけて、腕の中のシュンに告げる。
シュンは不安そうに瞼を伏せた。
「僕、わからないの。わからなくなってしまった。僕が好きなのはヒョウガなのか、ヒョウガに抱きしめてもらうことなのか――」

シュンは突然 天啓を受けたように色欲に目覚めたわけではなかったらしい。
不潔を嫌う子供らしい不安に囚われているシュンに、ヒョウガは、
「それは同じことだ」
と答えた。
「そうなの?」
それでもまだ完全には不安を払拭しきれていないらしいシュンに、ヒョウガが頷く。
「もちろんだ。それともおまえは、俺以外の誰かにあんなことをされても、俺との時と同じように歓ぶのか」

「そんなこと あるはずないよ!」
シュンの確信に満ちた返答に安心したのは、シュンよりもヒョウガの方だった。
それならば、シュンがいくら性の快楽に目覚めたとしても何の問題もない。
シュンもそう思うことができたらしく、彼はやっと自分自身への信頼を回復したような表情になった。

「2、3日中には、レッジョに向けて発とうと思う」
「僕、自分のものといえるものを何も持ってないよ」
「おまえ以外には何もいらない。何も持たなくていい」
シュンが素直にヒョウガに頷く。
ヒョウガの言葉を信じる以外にシュンにできることはなかったし、彼の言葉を信じることはシュンには容易だった。
ヒョウガがそんなシュンの髪を撫でる。

しかし、レッジョ公国の立場の不安定な王子がミラノの貴公子にたぶらかされたという噂は、レッジョ公国でもすぐに知れ渡ることになるだろう。
十数人もの証人がいたのである。
あの見世物の有り様が外部に洩れないはずはなく、それは既にレッジョにも伝わっているかもしれない。
淫乱の噂とシュンの清楚な外見の乖離は、好奇の視線をシュンに集めることになる。
ヒョウガは、シュンの特定個人に対する性的奔放より、そちらの方が心配だった。

肉体の歓喜を知っても シュンの洞察力と聡明は健在のようで、彼はすぐにヒョウガの懸念を察してくれた。
「大丈夫だよ。誰にどんな目で見られることになっても、ヒョウガが側にいてくれさえしたら、僕は平気だから」
「俺はおまえから離れられないから――なら、大丈夫だろう」
「うん、きっと」

二人の強さを信じて、ヒョウガがシュンに微笑する。
その微笑に出会ったシュンは――家も故国も地位も名誉も誇りも神も すべてを失ったはずなのに――シュンは今、世界の全部を自分のものにしたような気持ちになっていた。
それも当然のことだったろう。
シュンは、人類すべてに共通した最高の野心を満たしたばかりだったのだから。

人類すべてに共通した最高の野心。
その野心の名を『幸福』という。






Fin.






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