無明



他にどうすればよかったんだ?
おまえを振り向かせるために、俺は。

『俺はおまえが嫌いだ』
そう言う以外にどうすれば?

おまえは優しい人間だったな。
誰にでも優しかった。

おまえは善良だった。
どんな時にも、まるで、この世の悪意の全てに挑むように。

優しくて強いおまえ。
おまえを嫌う人間など、この世にはいなかったに違いない。
いたら、そいつは、自分を邪悪と思うしかなかったに違いない。
だから、誰もおまえを嫌えなかった。
自分を邪悪と思わずにいられないことの恐ろしさを、人間は誰でも知っている。

人間は、所詮不完全な生き物だ。
完全な善にも、完全な悪にもなれない。
どんなに悪ぶっている人間も、心のどこかに、自分にも善良な部分があると思いたがっている。
そう思わずに生きていけるはずがない。

おまえはどうだったんだ?
俺の目に、完全に善良な人間に映っていたおまえは。
おまえにも、悪の部分はあったのか?

おまえを嫌いだと言い続けていた俺を庇って死んでいったおまえにも?

――あったのかもしれないな。
だが、おまえは、それを素直に認めることで、そんな部分をすら、自分が善良でいるための糧にしていたに違いない。


おまえは知っていたのか?
俺が、ただおまえに振り向いて欲しいがために、ただおまえにとって唯一の――唯一の特別な人間でいたいがために、おまえを嫌いだと言い続けていたことを。

事実、俺だけだったろう?
おまえを嫌いだと言い張る“邪悪な”人間は?

おまえを嫌う態度をとり続ける俺に出会うたび、おまえは悲しそうな顔をしていた。
おまえがそんな目を向ける相手は俺だけだった。
俺だけが、おまえにとって特別な人間だった。

おまえを愛し、おまえが愛する多くの人間の中に、俺はいなかった。
俺は、おまえにとって、ただ一人の人間だった。
おまえを嫌う、ただ一人の。

そんな俺を、おまえは、それでも庇ってみせたな。
あれは、おまえの本能か、仲間を救おうとする義務感か、それとも、あくまでも善良な存在であろうとしたおまえの意地だったのか――。

あるいは、おまえは、おまえを嫌う俺を庇ってみせることで、俺の悪意に勝とうとしたのだったのかもしれない。


それは無意味なことだったんだ、瞬。
最初から、俺はおまえに悪意など抱いていなかったんだから。
俺は最初から、おまえの足許に跪き項垂れる無力な存在だったんだから。


あれから、俺は、それでも無意味に命を永らえてきた。
おまえの死を嘆き、自分の命を放棄してしまったら――俺がおまえを必要としていたことが、おまえに知れてしまうだろう?
死んでなお、おまえは、俺に愚かな意地を張らせ続けていた。

だが、それも、今終わる。


――これが人生というものか。

幸も不幸もない。
ただ、おまえだけがいる。

俺の生きていた時間の中に咲く、ただひとつだけの白い花。

瞬、今なら言える。

おまえの命がこの世になく、俺の命が消えかけている今この時なら。
今しか言えない。

瞬。

俺はおまえを愛していた。
いつだって、おまえしか愛していなかったんだ。


この先、俺を待っているものは何なんだろうな?
俺は、おまえのいる場所には行けないだろう。

できれば、この辛い思いを忘れられるほどの業火が、俺を迎えてくれればいいんだが。

いや――地獄のどんな業火も、俺からこの思いを忘れさせることはできないだろう。
それでもいい。
忘れて、楽になろうとは思わない。

俺は、おまえを苦しませ、悲しませ続けてきたのだから。
そして、俺は、永遠に、おまえの特別な存在であり続けたい。

おまえにとってただ一人だけの。

それだけが、俺の願いだ。
この無明の中に生き、そして死んでいく俺の。

どんな無明の中にいても、俺には、ただ一つの白い花が見える。

見ることを、許してくれ。

瞬、許してくれ。
この愚かな俺を。

人とは、おそらく、この愚かさから逃れられないようにできているんだ。
そして、その愚かさの中に一筋の光明を求め続ける。

俺にとっては、それがおまえだった。
ただ、それだけのこと。

それだけのことが、これほど辛いさだめだった。


許してくれ。
俺に出会ってしまったおまえの運命を。

そして、それでも、おまえに出会えて幸福だったと思う、自分勝手なこの俺を、どうか許してくれ。


無明と白い花。

おそらく、それが、人が生きるということなのだろう――。







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