ブーンと鈍い音をたて、ガラスの向こう側の映像が変化しだす。映っているのはぜんぶ、肩から上の人の顔であるが、黒人の老女・白人の子供・アジア人男性など、人種や性別、年齢などはまちまちである。それぞれの表情まで、見事にばらばらだった。
 ガラスの額縁のなかで、ブラウン管にとりどりの顔が現われては消える。
 はじめのうちは、人相がはっきり判別できるぐらいに長い間、ひとりの顔が映されていたが、しだいに顔の入れ替わりがめまぐるしく速くなっていく。
 だんだん速く、なにもかもが流れるように変わっていく。目はその速さについていけない。
 そしてもっと速く回転し、もう人間の顔が映っていることぐらいしかわからなくなったその瞬間、画像はひとつの顔となった。
 その顔は、今まで映っていたうちの誰のものでもない。
 男でもなく、女でもない。
 年老いてもおらず、子供でもなく。
 誰かに似ているようで、誰にも似ていないようでもあり。
 うっすらと唇をほころばせた表情は、微笑んでいるような哀しんでいるような。
 しかし、そこに映っている人間の顔は、たとえようもなく美しいものだった。
 
 ひさしぶりに間近で『人』を見た安藤は、知らないうちに手を伸ばし、画面に現われた顔に触れようとしていた。
 こんなにもこれは美しかっただろうか。こんなにもはかなげだっただろうか。

 細かな粒子が明滅する画像はやがて、回転がおそくなって、それぞれの人間の顔に戻った。
 しばしそのまま魅入ってから、安藤は気恥ずかしくなって口を開いた。
「ごらんのように、最初は一枚一枚違う人間の顔がスライドされます。その回転がどんどん速まり、人間の眼では、もはやそれぞれが別個のものとしてとらえられなくなってきます。
・・・パラパラ漫画のページを送る手を早めれば、紙に描かれているただの絵が、動いているように見えたりするのと同じ原理でしょうね。
 そうやって、数百、数万の人の顔が入れ替わっていくのですが、それらはやがて一つの像に見えてきます。それがさきほどごらんになった、あの美しい「顔」です。
 はじめ私は、『人』を見るまでは、人間の顔がひとつに見えたとしてもその顔は、味も素っ気もない、まさに平均的な顔になるのだろうと想像していました。目や鼻、口などを数値化し、それを母数で割って平均値を出していく・・・。
 それをまた画像として出力すれば、解剖学的な人の顔が現われるのではないか、と考えていたのです。」
 汗をハンカチでぬぐい、声をしぼりだして彼は続けた。
「ところが、あの『人』はどうでしょう? 
 たしかに、個々の映像は、一枚一枚がなんの変哲もない、人の顔でしかありません。それなのに、無数の人の顔が集まり、私の脳のなかでそれらが一つに溶け合ったときに、あの顔が現われてきたのです。
 あんなに美しく、性別のわからない、年齢もまったく感じない顔を見たのはあれがはじめてでした。あれほど優しく、哀しみをたたえた双眸も。
 そうです、あれはまるで、まるで・・・」
 先を言おうとすると、また額からどっと汗が出て、安藤は口ごもった。
 整った顔立ちをぴくりとも動かさず、氷河が続きをうながした。
「言ってくれ。自分の言葉で。」
「勘弁してくださいよ、いい年して言えたもんじゃありません。」
「いや、続けるんだ。」
 有無をいわさぬ口調に、安藤はまた怒りがぶり返してきて、声をふりしぼった。
「まるで、天使のようでした・・・。
 これで満足しましたか? 中年の男がこんなことを思い浮かべるなんて、若い人にとってはおかしくてしょうがないでしょう。でもわかってください。
 次第に身のほどがわかってくると、話すことのできない感情なんてたくさんありますが、けしてその感情を忘れたわけではないんです。
 あの顔を知っている。そう思いましたよ。
 まだ悪ガキのころ、日曜学校に放り込まれましてね。毎週彩色された綺麗なカードがもらえたんです。それを目当てに通っていたようなものでした。牧師の説教など聴いちゃいませんでしたが、不思議とあのカードに描かれていた絵っていうのは覚えているものですよ。 
 ある日のカードはこんな話を描いたものでした。マリアがひざまずいている。そこへ天使がやってきて、神の御言葉を伝える・・・いわゆる『受胎告知』という場面ですね。
 あのときの顔、あのときの天使の面影がよみがえり、頭から離れませんでした。
 いちおう私も美術部門に長いこといましたから、それなりに調べていくうちに、ますます天使というのはこんな感じなのではないかと、思い込んでしまったんです。エンジェル、アンゲロス、マルク―ス。
 たとえば、天使は性別がありません。
 神々しさを光としてその頭にいただき、まぶしくてまともに見た人間はいない。しかし誰もが天使は神聖なものとして感じています。人間に似せて造られていながら、人間よりももっと神に近い。この『人』に浮かび上がってくるような顔に似ている、そうは思いませんか。」
 一息ついて、安藤は目頭を押さえ、うつむきがちになってまた言葉を継いだ。
「私がこれを涙がでるほど美しいと思った理由は、描かれた絵ではなく、写真のイメージが融解して出現した『顔』だからです。
 一コマに記録されている個々の顔なんて、どれもたいしたことはありません。もしや絶世の美女でも混じっていないかと、しらみつぶしに探してみることまでしました。そんなことはなかった。ええ、もちろん多少の美醜はありましたが。
 私がこの作品を、かけがえのないものと思ったのはそのせいなんです。
 人の、ただの人間の顔の集合から天に属するようなものが現われてくる。もしも私の顔写真が一枚紛れ込んでいたとしても、現われ出てくるあの『人』の美しさは変わらないでしょう。きっと誰の写真が混じっていても、おそらく同じことです。
 私は、そう考えたときに、少し世界が違って見えました。なぜなら私にも、そしてどんな者であっても、あの顔を構成する一員であることが許されているんです。それはとりもなおさず、どんな者であっても、善良で美しいところがあるということです。
 もしも我々のその善良で美しいところをしぼり取って集め、濾過して煎じつめたらあのようなエッセンスができるのか、とため息がでました。
 そして私達は、たとえばあなたと私がいかに違っていようとも、本当はその違いがたいしたことではないのだ、ということを『人』によって感じたのです。」