食卓にはそれは豪華な食事が並んでいた。瞬の驚く顔を氷河は満足げに眺めていた。
「すごいねぇ…」
 瞬が笑顔を浮かべ食卓に着く。
「俺の努力の結晶。すごいだろ?」
 それほど広くもないテーブルには、そこにのる限りの皿がのせられていた。ビーフストロガノフの香りが鼻をくすぐり、瞬はとてもおなかがすいていたことを思い出す。
 氷河が立ち上がり、瞬の後ろに回った。
「プレゼント」
「なに?」
 微笑んで後ろを見上げた瞬の表情が、氷河の手にあるものを見て───凍った。
「いつか本当に心から大切に思える誰かが現れたなら、その時にはこれを贈ろうと思っていた…」
 奥歯が震えてぶつかり合う音を瞬は聞いた。氷河はそんな瞬の様子に気がつかず、母の形見のロザリオを瞬の首にかけた。
「俺がいちばん大切にしていた物を、俺がいちばん大切に思う、おまえに」
 ゆっくりと瞬は視線を落とした。胸元に輝く金のロザリオ。
『ひとつ予言をしよう』
 老婆の声が耳の裡によみがえる。
『最も愛している者から最も大切な物を貰うだろう。いちばん欲していた言葉と共に…』
 言葉をなくして小さく震える瞬に、ようやくその時氷河は気付いたらしかった。
「…瞬?」
 心配げに自分を呼ぶ声に、瞬は我に返りロザリオを掴んだ。
「ごめん…!」
 瞬は椅子を倒して立ち上がり、貰ったばかりのロザリオを氷河の胸に押しつけると、そのまま豪雨の外へ飛び出した。
「瞬!」
 氷河の声を遠くに聞きながら瞬は走った。
 秋の台風。視界すら遮るほどの雨の中、瞬は先刻老婆がいたあの結界の淵へと走っていた。
 氷河のロザリオ。あれは彼が何よりも大切にしていた物だと知っていた。
 涙が足下の遠近感覚を遠ざけ、瞬は突き出した岩に足を取られ倒れた。
 雨と泥に頬を濡らして、瞬はそのまま立ち上がることができなかった。
 涙が止めどなく流れ、伝う水滴は雨と区別がつかないまま泥の中に落ちる。
「…可哀想に」
 不意に聞き覚えのある声がした。
  瞬には見なくてもそれが誰の声であるかわかっていた。
「可哀想にね」
 数時間前に初めて出会った老婆の声を、瞬は聞き誤ることはなかった。
 瞬はあきらめたように瞳を閉じた。



END






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