瞬の許に豪華な紫のバラの花束が届けられたのは、西の空も薄紫に霞みかけたある日の夕暮れのことだった。 「わあ、綺麗な紫のバラ! 誰が贈ってくれたんだろ」 贈り主も定かでないバラの花束を喜んで頬を薔薇色に上気させる瞬を見た氷河は、当然ひどく不愉快だった。 「どっかのスケベ親父に決まってる。そんなもの、捨ててしまえ」 「氷河ったら、何怒ってるの。たとえそうだったとしても、花に罪はないでしょ」 「花に罪はなくても、もしかしたらどこぞのスケベ親父が触った花かもしれないじゃないか。捨てた方がいいに決まってる!」 「そんなこと、勝手に決めつけるものじゃないよ、氷河」 瞬は、氷河の忠告に耳を貸そうともせず、豪華なバラにふさわしい高価なクリスタルの花瓶を調達してくると、不機嫌の権化と化している氷河の目の前で、その花を花瓶に移し始めた。移そうとした。 「あれ…?」 その段になって、瞬は、花束の中に、小さなカードが埋もれていることに気付いたのである。 バラと同じ紫色の、金の縁取りのあるカード。 宛名は、『氷河&瞬殿』と記されていた。 「あ、このバラ、僕宛じゃなく、僕と氷河宛だよ!」 瞬の声が弾んだのは、それで少しは氷河の機嫌も良い方向に向かってくれるかと期待したからだった。 にこにこしながら、カードの文面を、声に出して読みあげる。 「『二人のますますの発展と健勝と、今宵の健闘を命じる。 ぱんだら女王』 ……え? なに、これ」 むせかえるようなバラの芳香の中で、瞬は微かに首をかしげた。 贈り主の名は、どこかで聞いたことのあるような気のする名前だったが、それが誰なのかを、瞬はどうしても思い出すことができなかった。 そのカードには、有無を言わせぬ威厳と威圧感が漂っていた。 決して逆らってはいけないような、逆らうことのできないような、絶対の支配者の意思のようなものが、そのカードには込められていた。 そして。 不思議なカードを訝りながら、バラの香りに包まれているうちに、瞬は、自分の身体の内に、奇妙な疼きを覚え始めたのである。 まるでバラの香りに、身体どころか心までも支配されてしまったような感覚。 紫のバラが、無言で、瞬に何かを命じている――? 「……このバラの花の香り……って。あれ…? 僕、なんだか、くらくらする……。すごく変な気持ち……」 「瞬…!? どうしたんだ!? バラの香りに酔いでもしたのか? まさか、この花、毒でも仕込んであったんじゃないだろうな…!」 一人で立っているのも危なげな風情の瞬を心配して、その側に駆け寄った氷河の胸に、瞬の身体が頼りなくしなだれかかってくる。 そして、瞬は、切なげに潤んだ瞳で、氷河を見上げ、訴えた。 「……氷河。あの……具合い悪いんじゃないんだけど、僕、横になりたいの。ベッドまで連れてってくれる?」 「……」 これで、瞬が何を求めているのかわからなかったら、氷河は男失格である。 他のことはいざ知らず、瞬の求めを感じ取ることにかけては、氷河は天賦の才の持ち主だった。 故に、氷河はすぐに瞬を瞬の求める場所に運び、変な気持ちになってしまった瞬の看病に、一心不乱・粉骨砕身・誠心誠意努めることになったのである。 それは、ひどく楽しいお務めではあった♪ で、氷河の看病の甲斐あって、瞬の容体は少しずつ好転していったのである。 「瞬、大丈夫か?」 「だいぶよくなったけど、でも……」 「もう一回?」 氷河の問いには答えず、瞬が、氷河の胸に恥ずかしそうに頬を埋める。 そんな瞬を見て、氷河は、つい先程まであれほど不愉快に思っていた紫のバラの送り主に、尋常でない好意を抱き始めていた。 いったい何がどうなっているのかはわからないが、瞬の気分をおかしくしてくれたのが、あの紫のバラの香りだということに疑いの余地はない。 (こういう効果のある花束なら毎日送られてきてもいいぞ) 瞬の求めに応じ、平生の純情可憐なそれとは全く違う瞬の表情を楽しみながら、氷河は、バラの花の贈り主に、今は感謝の念さえ抱いていた。 紫のバラは、しかし、それ以後二度と送られてくることはなかった。 その必要はなかったのである。 妖しげな紫のバラは、決して枯れることのない花だったのだ。 ■ このショートショートはフィクションです。 ■ 当然のことながら、登場人物も実在の人間ではありません。 |