花酔い






昨夜は、花に酔った。

そして、花に酔って過ごした夜の後に迎える朝は、気怠い心地良さでできていた。
カーテンを閉じ忘れた窓から射し込んでくる朝の光の暖かさと明るさも、氷河自身の気分と体調も。


昨夜、城戸邸に起居する青銅聖闘士の面々は、こぞって夜桜見物に繰り出したのである。
場所は、城戸邸から歩いて7、8分のところにある、ほとんどが緑地でできている小さな公園。
桜の木はさほど多くはないのだが、ソメイヨシノにしては見事な巨木が点在するその公園は、知る人ぞ知る“ご近所の桜の名所”になっていた。

花と木は見事でも知名度に欠ける桜の名所は、ちょうど満開の時期だというのに、さほどの人出もなく、それぞれの木の下にぽつぽつと風流人が佇んでいるような具合いだった。

墨を落としたような夜の闇の中で、照明の代役を務めるようにはらはらと白く鮮やかに散る桜と、瞬の姿を肴に、氷河は随分といい気分で、日本の花を堪能したのである。

静かに花を愛でている他のメンバーたちの分も、星矢が大いに食い、飲み、騒いでいたのは憶えていたが、実は氷河は、自分がどうやって自室のベッドにまで戻ってきたのか、まるで記憶になかった。


最初はほろ酔い気分だった。
やがて、潔く散る桜の花が妙になまめかしい花だということに気付いて、花の宴の後半は、その艶を意識から追い払うべく、ピッチをあげたように記憶している。

散る桜の下の瞬は、夜目にも綺麗に見えた。
なまめかしく瞬を飾る桜の花びらに悪意を感じるほど。
瞬を――その姿を見て満足するだけでなく、抱きしめることができたなら、春嵐に散り去る桜のように、この鬱屈した思いも霧散するのだろうかと、氷河は、桜の下で益体もないことを考え続けていたのだった。


咲いてもすぐに散り行く花。
その美しさは、決して長く確実に自分のものにしておくことができない。
桜は、自分のものとして、その手にすることができない花なのである。
その捉えどころのなさと不安定さに、苛立ちさえ感じさせる桜――の花。

瞬は、そういうところが桜に似ているのかもしれないと思い、思ってからすぐに、氷河は考え直した。
捉えどころがなく不安定なのは瞬ではなく、瞬と自分の関係で、瞬にとって確固たる存在感を確信できていない自分自身なのだと。


『桜の樹の下には屍体が埋まっている』と言ったのは、梶井基次郎だった。
そうでなければ、あの美しさは信じ難いというのが、その理由。
昨夜の自分は、確かに、そう思っても不思議ではない花の乱舞に酔っていたと、氷河は朝の光の中で自認した。






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