「おまえの悲しいことを、忘れさせてやろうか?」
氷河が、笑いながら、瞬に言う。

あの頃の面影を残しつつも、妙にデカく育ってしまった“綺麗な人形”の成れの果てを、瞬は上目使いに見やった。
「どうやって? ここにはベッドはないよ」

「キスだけで十分」
言うなり、氷河の唇が瞬の唇に重ねられる。

血と鉄の味のするキス――は、やがて甘いそれに変わっていった。
それは、互いの口中の血と砂を舌で拭い取るようなキスだった。

お互いの中にある苦いものを消し合うと、最後に残るのは、痺れや痛みを伴うほどの甘さだけになる。
そのキスのせいで、瞬は、今すぐに氷河と身体を交えたい欲求にかられた。
だが、そうするためには、この闘いを終えなければならない。


「どうだ? 忘れたか?」
名残惜しげに、氷河が瞬の唇を解放する。
そして、氷河は、半ば陶然としている瞬に、尋ねてきた。

悲しいことは忘れることができたが、代わりに、瞬の身体の奥には、切なくもどかしい疼きが生まれてきていた。
「……別のこと、思い出した。僕がこれまで生きてきたうちで、いちばんびっくりしたのは、氷河に好きだって言われるなり押し倒されたことだよ」

「あの時、俺は、おまえが抵抗してこないことに驚いたがな。どんな強大な敵に対峙する時より壮絶な覚悟を決めて、俺は、それこそ命懸けでおまえに挑んだんだぞ」

真顔で告げる氷河に、瞬は苦笑した。
「氷河は、せっかちで、説明不足なの。用件しか言わないし、しないんだから。普通、『好き』とセックスの間には、もう少し時間を置くものでしょ」

「俺は、回りくどいことは嫌いだ」
あっさりと言い切って、氷河は、東の方向に視線を巡らせた。
陽光と共に、不穏な気配が近付いて来ている。


「おまえを押し倒す時ほどの覚悟もいらない相手だが、そろそろ行くか。敵さんが動き出したようだ」
「うん。この闘いが終われば、やわらかいベッドに横になれるよね」
瞬が、氷河に頷いて、身体を起こす。

「だからって、ゆっくり眠れると思うなよ」
「それは僕も望むところだよ!」


早く、その場所に辿り着きたい。
瞬は、氷河より一瞬早く、昨夜一晩を過ごした岩場を飛び出し、敵の前に立ちふさがった。

悲しい出来事は、夜明けの星のように、いつのまにか瞬の胸の内から消えてしまっていた。





Fin.






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