この個展のために借り切ったメインホールの隅の壁に、ほんの数点、白い風景画が飾られている。
まるで、刺身のツマのようにひっそりと。
おそらく鑑賞者――いや、見物人の誰もが、それらの小品を、濃厚な裸婦画の口直し作品程度にしか思わないんだろう。
それこそが俺の描きたいもので、俺は、それらを描くために、くそ忙しい毎日の中から時間を捻出し、そして精魂を傾けて描いた。

死と静寂の白い大地は、生々しく生きているさもしい人間共なんかよりずっと美しいのに、誰もそれに気付かない。
これだけ人があふれていて、しかも、仮にもこのイベントは絵描きの個展だっていうのに、絵を見る目を持つ人間は、ここには一人もいない。
こんな個展には来ない方が利口だと、俺自身が思うんだから、それは正しい行動なんだろう。
――そんなことを考えながら、俺は、誰にも顧みられない哀れな俺の作品に目を向けた。

そうして、俺は、そこに――誰にも顧みられないと思っていた絵の前に――ひとりの少年が立っているのに気付いた。
彼は、俺の描いた白い風景画を、じっと見詰めていた。

姿勢がいい。
少し細すぎるきらいがあるが、プロポーションも、人間にこれ以上は望めないだろう理想的な比率でできている。
品はいいが、ありふれた型の紺のブレザーを着た、14、5歳の少年だった。

裸婦像に興味を抱くほどの年齢に達していないわけでもない。
俺は、自分の内に湧き起こってくる期待を必死に打ち消しながら、その少年の側に歩み寄った。
「ヌードはあっちのフロアにある。一応芸術作品ということになっているから、恥ずかしがらずに見てきたらどうだ」

「ご親切にどうも。一通りは見てきたんです。でも、あんなのより――」
絵から目を離さずに、その少年は俺に礼を言った。

そして、親切なおせっかい焼きなどには見向きもせずに、まるで独り言のように言葉を続けた。
「この絵、息が詰まるくらい切ない。命がどこにもない。静物画だって風景画だって、普通はどこかに命が描かれているものなのに、この絵は、空にも雪にも命がなくて──。でも、命がないことがこの絵の命になっていて──あんな気の抜けたヌードを描いた手が、これを描いたなんて信じられない。この絵は、見ていると胸が苦しくなる。これを描いた画家を抱きしめてあげたくなります……!」

「…………」
感極まったようにそう言われた俺の感激が、俺以外の誰にわかるだろう。
息が詰まりそうになったのは、俺の方だった。

「なら、抱きしめてくれ」
「え?」
俺の戯言を聞いて初めて、その少年は、視線を俺の方に巡らせた。

「あ……」
どうやら俺の顔くらいは見知っていたらしい。
彼は、俺をその絵の作者と認めると、慌てたように、その視線をあちこちに飛ばし始めた。
まるで、自分が口にしてしまった言葉の行方を捜しているように。

「ご本人……氷河さん、ですか? あ……あの、ごめんなさい。失礼なことを申し上げて――」

「いや、若いのに、なかなかの慧眼で、恐れ入った」
「すみません、生意気言って」
「気にすることはない。その通りだから」
サイズが大きいだけの裸体画が手抜き作品なことは、見る目のある者になら一目瞭然の事実だった。
ただ、ここには、絵を見る目を持った者が一人もいないというだけで。

「え?」
俺の投げ遣りな口調に虚を突かれたように、彼が顔をあげる。
俺と彼の視線は、初めて同一線上に重なり、そして、俺は言葉を失った。

彼の、その目に驚いて。

ありきたりな表現をするなら、“吸いこまれそうな目”というのは、こういう目を言うのかと、俺は思った。

言葉を失って、俺とその少年は互いの目を見詰め合っていた。
それは、俺には、一瞬にも永遠にも感じられる長く短い時間だった。
実際には、ほんの2、3分。
それでも、無言で見詰め合っているには長すぎる時間だったろう。
だが、俺たちの間に邪魔が入ってこなかったら、俺たちはいつまでもそうしていたかもしれない。

「先生。あちらで会見が始まりますが」
俺のアシスタントが――そもそも、ルネサンス時代の工房でもあるまいに、本来孤独な創作者であるはずの絵描きにアシスタントなんてものが必要な現実がおかしいんだ!――俺を呼びにきて、俺とその少年との時間をぶち壊しにしてくれた。

先生と言われるほどの馬鹿でもないと何度も言ったのに、この馬鹿は、他に呼びようがないと言い張って、2、3歳しか歳の違わない俺を先生呼ばわりする。
素直に、ボスとでも社長とでも呼べばいいんだ。
俺は、こいつの雇用主なんだから。

「会見じゃなく、広報宣伝だろう」
至福の時を邪魔されて、俺は不機嫌になった。
だが、その広報作業をすっぽかすわけにもいかない。
なにしろ、マスコミの皆様方は、俺に飯のタネを恵んでくださる有難い方々だ。

「今行く」
俺は不粋なアシスタントにそう言って、もう一度、俺の大事な理解者を振り返った。

「時間はあるか」
「え?」
「すぐ戻る。すぐに戻るから、ここにいてくれ」
俺の懇願を、彼がどう思ったのかを確かめる時間は、俺にはなかった。

「急いでください。会見は展示会場の中でやることになっていますから、マスコミ連中にはさっさと切り上げてもらわないと、客が入れなくなります」
馬鹿アシスタントが、馬鹿のくせにマスコミ連中を見下した態度で、俺をせっついてきた。






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