先代の神の配偶者が、飛ぶように軽やかな足取りで塔の階段を駆け下りていくと、シュンはたったひとりで、ナブ神のための寝室に取り残されることになった。
黄金の卓、やわらかな敷き物、寝台を囲むとばりも敷き布も、それまでシュンが手にとったことがないような上等のものだった。
一見したところ、王妃の居室と言って差し支えないほど豪華な調度で囲まれた広い部屋に、窓だけはたった一つしか穿たれていない。

神の配偶者に選ばれたことを、あの少女は『幸運』と言っていたが、シュンにはとてもそうは思えなかった。
シュンは、否応なく神の力で――ヒョウガの力で――ここに閉じ込められたにすぎなかった。


塔の部屋にただ一つだけある窓から、夕暮れのバビロンの街が見える。
神殿と王宮の足許に、それは広がっていた。
その中では、人々が、今日も日々の暮らしに泣き笑いしているのだ。

この数日で、めまぐるしく変わってしまった自分の境遇を思い起こし、シュンは大きく溜め息をついた。
ついこの間のことだというのに、シュンは、あのバビロンの街でヒョウガと共に過ごしていた日々が懐かしくてならなかった。

つい先日まで、シュンは、王や神というものは、自分たちからずっと遠いところにあるのだと思っていた。
先の王が死んだ時、ヒョウガが、聖鳥が次の王に自分を選んでくれたなら――という夢物語を語り出した時には、その思いつきがおかしくて、笑った。
こんな下町で、毎日を生きることだけに必死でいる人間が、王になったら――とはだいそれた例え話である。

シュンがそう告げると、ヒョウガは少し機嫌を損ねたように、
「俺は、もともとは、アッシリアの貴族の出だぞ」
と言って向きになってみせた。

武断で名を馳せたアッシリア帝国。
その国の名が地上から消えてから、数十年が経つ。

「おまえだって、こんなに綺麗なんだ。案外、どこかから高貴な血が入ってるかもしれない」
「僕に?」

夢物語――それは、夢物語だった。
ヒョウガの楽しい夢物語を聞いて、シュンはくすくすと笑い、ヒョウガ自身も最後には、自分の語る物語を、
「ま、それで言ったら、すべての人間は、アンウレガルラとアンネガラルの子孫なんだがな」
という笑い話にしてしまった。

だが、ヒョウガはすぐにまた真顔になった。
「鳥に選ばれるのも、王の家に生まれるのも、ただの運に過ぎない。問題は、与えられた機会をどう生かすかだ。王になって、何代も続く、安定した機構と体制を作れば――」
そのままヒョウガに話し続けさせると、難しい政治の話になることを知っていたシュンは、すぐにヒョウガの話の腰を折った。

「神の配偶者選びも運?」
「色々小細工をする家も多いみたいだが、それも運だろう。どこの家でも同じようなことをしてるんだから、結局は運だろうな。そのせいで――今は貧しくても、いつか運が向いてくるかもしれないなんて希望を持っていられるから、この街の貧しい者たちは、多少の不満は我慢してしまう。実にうまくできた仕組みだ」

ヒョウガは、その“うまくできた仕組み”に不満げだった。
才能と力があると自負している人間に、『運』を待たざるを得ない現実は、不本意極まりないことなのかもしれない。

「そんな運、いらないのにね」
「いらない?」
「王様の家に生まれるのも、王様に選ばれるのも、それは運なんだろうけど……。自分の配偶者は自分の意思で選ぶものでしょ。一緒に生きていく人くらいは、運じゃなく、自分で決めたいよね」
「俺が言っているのは――」

ヒョウガはシュンに何か言いたげにしていたが、やがて彼は、怒らせていた肩から力を抜いた。
「まあ、選べるものと選べないもの、両方あるのが人生ってやつか」

そう言って、ヒョウガは笑った――。
笑って、そして、彼は、運を掴まえたのだ。


『きっと、連れにきてやるから。おまえがいないと、俺は――』
王宮に入る日、ヒョウガはシュンにそう告げ、掠めるようなキスを残して、シュンの前から姿を消してしまったのだった。






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