彼は、不安そうな目をしていた。
父親以外の人間を見るのは、物心ついてから初めてなのだろう。

俺と彼は、しばし無言で互いを見詰め合っていた。
やがて彼が、少しずつ後ずさりを始める。
未知の人間の出現に怯えているのかもしれなかった。
結局、彼は、その場から逃げ出そうとして、俺に背を向けた。

ここで、彼を見失うわけにはいかない。
俺は、親父から聞いていた、彼の名を口にした。

「瞬!」

その名を聞いて、彼は立ち止まり、そして、もう一度、俺の立っている浜の方を振り返った。
やはり、そうらしい。

「瞬くんだね」
俺は、彼を怯えさせないように注意深く、ゆっくりと彼の側に歩み寄った。
間近で見ると一層、彼――瞬――は、綺麗な少年だった。
顔立ちもさることながら、その肌の滑らかさと肌理きめの細かさは、むしろ奇異に感じられるほどである。
そのなまめかしさに少々目眩いを覚えながら、俺は彼に尋ねた。

「お父さんはどこにいる?」
「おと……に、る?」
「…………」

たどたどしい、その口調――。
まともに学校に行っていないとはいえ、彼の父親は、この島への隠棲当時、世界屈指の植物学者だった。
義務教育程度の知識や教養を息子に与えることは、彼ならば容易にできることのはずだというのに――。

俺は嫌な予感がした。

「君はどこに住んでいるんだ?」
「キミ、るんだ?」
瞬は、相変わらず、不完全に俺の言葉を反復するだけだった。

「まさか、君は、この島にひとりきりなのか」
「ひとり……?」

瞬は、もう俺を恐がってはいないようだったが、相変わらず、その口調は幼な子のように頼りない。
それでいて、瞬の肌は、同性なのに目のやり場に困るほどなまめかしい。
こんな子供に、そんな感懐を抱いている自分自身に当惑して、俺は、聞かずもがなの質問を重ねていた。
「歳はいくつだ」

俺にそう尋ねられた瞬が、急に嬉しそうに瞳を輝かせる。
それは、彼にもわかる日本語――おそらくは、まだ日本にいる時に幾度か人に尋ねられ、どう答えるべきなのかを教えられた日本語――だったのだろう。

「僕は瞬です。4つになりました」
瞬は、胸を張って、はきはきと滑らかな語調で答えた。

そして、その言葉を聞いて、俺は知った。
親父の願いは、もう叶わない。
おそらく、瞬の父親は、この島に来て2年ほどで──瞬が4歳の時に──亡くなったのだ。

俺の推察に間違いはなさそうだった。
それで、すべてのことに説明がつく。
並以上の知識を持った人間に育てられたはずの少年のたどたどしい言葉使いの訳も、まるで人に構われていないようなその姿の訳も。

たった4歳の子供が、一人でこんな場所で十数年も生き永らえることができるものだろうかという疑念もあったが、人間に危害を加えるような大型動物もなく、気候にも食料にも恵まれたこの島でなら、それは可能なことのような気がした。
この島には、“孤独”という概念を持つ以前の人間を養い続けられるものが、ほぼ揃っているのだ。

ふいに、瞬の頭の上の木の枝から、極彩色の鳥が甲高い声を響かせて飛び立つ。
驚いたことに、瞬は、鳥と全く同じトーンの声で、その鳥に合図を送った。
彼の使う日本語より、それははるかに流暢だった。

「瞬。俺の名は氷河だ」
「ひょーが」
「君を連れ戻しにきた」
「ひょーが。キミをつ、た」

12年間、鳥だけを話し相手にして、彼はこの島で一人で生きてきたのだろう。
人との会話の方法を忘れていても、それは仕方のないことである。

瞬は、俺が告げる言葉の意味を正確に理解しているようには見えなかった。
首をかしげて、瞬は、嬉しそうに、
「ひょーが、ひょーが、ひょーが」
――と、俺の名を反復した。

俺が彼の同胞だということがわかるのだろうか。
瞬の声は、小鳥が歌うそれのように、高く澄んでいた。

それにしても、目のやり場に困る――。






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