神の協力を仰げないのなら、すぐに山をおりると、氷河は言った。
瞬は、その言葉を聞いて、驚き慌ててしまったのである。

彼がこの山を登るために幾日を費やしたのかは瞬には察することもできなかったが、身を軽くするために、彼は食料すらほとんど持たずに、この山に足を踏み入れたようだった。
1、2週間は酷使した身体を休め、体力を回復してからでないと、自力で山を下りるのは無理だろうと、瞬は勝手に判断していた。

その間に、瞬は、彼に、戦いには無関係な神の知恵を与えるつもりだった。
同胞を守りたい一心で、神の住む山に足を踏み入れた勇気と行動力に、せめて何らかの形で報いてやりたいと、瞬は考えていたのである。

「いえ、あの、せめて1週間くらいはここでお身体を休めていってください。その間に、僕、準備を……」
「準備? 何の準備だ。おまえは、おまえを信じる者たちを見殺しにするんだろう」
「薬草の見本と、病の症例や対処方法をまとめたものを、あなたに──」
「そんなものが、一瞬で命を奪われる攻撃にさらされている者の役に立つものか。俺は急いでいる。オリンポスの奴等がいつまた攻撃を仕掛けてくるかわからない」
「オ……オリンポスに、抗議は入れておきます。あの、これでも、一応エリシオンの神ですから、僕がこのことを知ったとなったら、オリンポスも迂闊には動けないはずで、あの、僕、オリンポスを消滅させるくらいの力は持って──いえ……」

『そんな力を持っているのになぜ』と問われることを恐れて、瞬はその先の言葉を飲み込んだ。
代わりに、下界の様子を映すスクリーンを氷河に見せて、彼を説得する。
「何か起きたら、すぐにわかるんです。その時には、必ずお知らせしますから、もう少しここに滞在してらしてください。ここには、あなたのお国まで、あなたを数分で運べる乗り物もあります」

「そんな乗り物があるのなら、薬草だの何だのは、おまえが後から持ってくればいいじゃないか!」
「山を下りるのは怖いので……あまり下には行きたくないんです」
「怖い? おまえは神だろう。その気になれば、人間を皆殺しにすることもできるほど強大な力を持った」
「でも、怖いんです」
「…………」

氷河は、瞬の小心を理解しかねているようだった。
人間を根絶やしにできるほどの力を持った神の、気弱に過ぎる言葉に、彼は嘆息してみせた。

俯いたままの彼の守護神を、氷河は無言で見詰めていた。
ややあってから、ぽつりと低い呟きを漏らす。
「こんなに可愛いのに、神……なんだな。人間だったらよかったのに」

彼がどういうつもりでそんなことを言ったのか、瞬にはわからなかった。
そんな言葉は、オリンポスの神々の口から出る追従でしか聞いたことがない。


湯に浸からせ、身体を覆っていた埃を洗い流して身仕舞いを整えさせると、氷河は素晴らしく美しい“人間”だった。






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