「君には、少し強引に出た方がいいようだ」 周囲を見回すと、アテナがつけてくれた警護の者たちは姿を消していた。 護身用の武器も取り上げられている。 ハーデスの意図を察して、瞬は壁際に数歩 後ずさった。 それは、彼の腕に捕らえられる時を数秒遅らせることにしか役立たなかったが。 「何するんですかっ!」 「この地上で最高の叡智を身に備えた君でも知らないことを教えてやろうと思ってね」 「や……!」 ハーデスの腕から逃れようとして、瞬はもがいた。 瞬の無意味な抵抗を、ハーデスがあざ笑う。 このオリンポスで、神々たちの様子を見ているうちに、今では瞬にも、ハーデスの真意がわかるようになっていた。 彼が本当に求めているのは瞬自身ではなく、瞬を手に入れることで自分のものにできるかもしれない、エリシオンの力だということ。 日に日に力を失っていく神々の世界の中で、それでも彼は、その世界を自分のものにしたいと願い、自分がその世界の頂点に立つことを目論んでいるのだ。 争い事を好むのは、人間も神々も同じ。 他者を支配することを欲する欲は、人間よりも、むしろ神の方が強く深い。 神々は、誰かを支配することで、自身の存在意義を確かめようとしているのではないかと思えるほどだった。 「何があったって、あなたにあれを渡すつもりはありません……!」 ハーデスの手で乱暴に床に引き倒された瞬は、自分にのしかかってくる黒い神に、決死の思いで叫んでいた。 途端に、それまでハーデスの目に刻まれていた勝ち誇ったような笑みが引きつる。 そして、彼は──動かなくなった。 急に彼の身体が重くなり、それとは逆に、彼の腕からは力が消えていった。 「あ……」 何が起こったのかが理解できずにいる瞬の上から、黒い神の身体の重みが取り除かれる。 瞬の横に転がり倒れたハーデスは、もはや“神”ではなくなっていた。 今のハーデスからは、神の知恵も力も傲慢も失われていた。 「瞬」 血の匂いが広がり始めた部屋に、瞬の名を呼ぶ者がいる。 血に濡れた剣を手にして、彼は瞬を見おろしていた。 「おまえを取り返しに来た」 ![]() 氷河が、そこに立っていた。 |