アテナは、その口許に刻んでいた微かな笑みを消し去ると、険しい表情で、瞬に正面から対峙した。
そして、言った。
「早くここから脱出なさい。オリンポスはもう終わりです」

たった一人の人間の手によって、神々の庭は瓦解する──のだ。
“神”には持ち得ない、圧倒的な意思の力と、その意思を支える肉体の強靭さを兼ね備えた“人間”の手によって。

これまで瞬は、オリンポスに対して、決して好意を抱いてはいなかった。
アテナ個人は好きだったが、オリンポスの体質のようなものが、瞬は嫌いだった。

だから、瞬が、アテナにその提案をしたのは、オリンポスへの好意からではなく、あまりに大きな変化を怖れる“神”としての立場がそうさせたのだったかもしれない。
「エリシオンが力を貸します。僕がオリンポスの招きを断り続けてきたのは、エリシオンの力を人間界の支配に使われることを危惧していたからで、僕は、オリンポスがそんなことになってるなんて、ちっとも知らなか──」
「瞬」

瞬の言葉を、アテナが遮る。
彼女の瞳には、再び微笑に似たものが浮かんできていた。
「瞬。私は人間界にくだるつもり。オリンポスを出て、生き残った者たちと、人間として生きていくつもりよ。そして、誰かに巡り会って……そうね、恋をしてみたいわ。人間として思いっきり生きて、そして、人間として死ぬの。素敵でしょ?」

この世界に、神はもういらない──。
アテナは、暗に、そう告げていた。
そして、だからといって、生きることを決して諦めたりはしない──と。

氷河が強いのは、彼が人間だからではないのかもしれない。
彼女の言葉を聞いて、瞬は、そう思ったのである。
だとしたら、もしかしたら──と。
「アテナ。でも……」

「大丈夫。私は幸せになってみせるわ」
アテナは、瞬にではなく氷河に、ヘリポートに辿り着くための道順を指示し終えてから、そう言って笑った。

その言葉を信じて、瞬は、氷河と共に、黒煙と爆音が迫ってくるオリンポスの神殿を後にしたのである。






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