「まあ、そういうわけで、このお屋敷には、惚れた男の首を抱えた花のように美しい若君の幽霊が出ると、もっぱらの噂なんです」
なかなかに壮絶なことを、不動産屋は実に明るく言い放ってくれた。
これからその屋敷に住もうとしている人間の前で、自慢げに。

「まるで、泉鏡花の天守物語だな」
鏡花の『天守物語』も、姫路城の殿様に手籠めにされかけて死んだ女が、魔的存在になって、城の天守に住みついた話のはずだ。
その女怪が、自分を手籠めにしようとした殿様の数代後の子孫である城主に仕える鷹匠・姫川図書之助ずしょのすけに、“千歳百歳ちとせももとせに唯一度の恋“をする。

不動産屋が語った幽霊話は、俺にはさして恐ろしいものには思えなかった。
だから俺は何の気なしに頷いて、そう言った。

ところが、俺の呟きを聞いた途端、不動産屋は肩を怒らせて、俺に食ってかかってきたんだ。
「姫路城に住む妖怪は、もともとは、手籠めにされた美女なんかじゃなく、築城の際に人柱にされた女の妖怪だそうじゃないですか。鏡花が、姫路城の伝説をあんなふうに変えたのは、絶対に、ウチの若君の話を知っていて、パロったんだと思いますがね!」

不動産屋の剣幕に、俺は少々驚いたのである。
『ウチの』と言うところをみると、そのご家老とやらは、藩主の殿様とは対照的に、領内の領民たちに、よほど慕われていたのだろう。
明治維新で没落しなかったところから判断しても、代々の当主が領民の絶大な支持を受けていた家だったに違いない。
そして、その影響力は現代にまで続いている──らしい。

にしても。
鏡花の『天守物語』の縁起までを詳しく知っているところをみると、姫路城を舞台にしたあの物語に、彼が対抗意識を抱いているのもまた事実のようだった。
聞くと、若君の思い人の名前は藩の記録から抹消されていて、『図書之助』という仮の名前がつけられているらしい。
こうなると、どちらがオリジンで、どちらがパロディなのかの判断も怪しくなってくる。

「しかし、そんなことを客に言っていいのか」
「たまに、オカルト好きなお客様もいらっしゃいますし、貸し主のご希望でもありますので──」
俺が尋ねると、不動産屋は、客に対して思わず気色ばんでしまった自分を恥じたのか、慌てて口調を客向けのそれに変えた。
「綺麗なお屋敷ですから、私共も、風雅のわかる人に住んでもらいたいんです」

メインの居間が、庭に面している。
テラスの向こうに、花だけでできた、和風とも洋風ともつかない庭が広がっていた。

「梅が盛りだな」
「桃も桜もあります。杏、小手毬、雪柳、ライラック、百日紅、アカシア、藤、山吹と、もう花の咲いていない時期はないくらいで」
「行き届いた世話ができる自信はないが」
「それは、心配無用です。週に一度は、家主が雇っている庭師がやってくることになっておりますので」

不動産屋の説明を聞いて、俺は今更ながらに、この家が売り家でないことを思い出した。
「売る気はないのか。言い値で買うぞ」
「それは無理でしょう。もともと、お金を求めて貸し出す家というわけではありませんし」
「?」

その不思議な答えに、俺は微かに眉根を寄せた。
賃料を得るためでないというのなら、この家の持ち主はなぜ、これほど美しい屋敷に他人を住まわせようなどということを考えたのだろう。
まさか、幽霊のお守りをさせるため──というのではあるまい。

少々の疑念は残ったが、俺はその日のうちに、花に埋もれたこの洋館を向こう一年借り受ける手続きを済ませた。






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