小さな灯りを一つだけ残して部屋を暗くし、眠るために目を閉じてみる。
そんな瞬の許を訪れたのは、安らかな眠りではなく、ほとんど忘れかけていた幼い頃の記憶だった。


「これ」
そう言って、瞬の目の前に差し出されたものは、1本の白いバラの花だった。
おそらく、その年に咲いた最後の花の一つ。

氷河が省略したのは、『おまえにやる』という言葉で、彼は、城戸邸の庭の一画にあるバラ園で咲いていたその花を、瞬のために手折ってきたらしい。

「お花は折ったりしない方がいいよ。お花咲いてるのを教えてくれたら、僕、見にいくのに──」
幼い瞬は、差し出されたバラの花を痛ましげに見詰め、そう答えた。

手折らなければ、その分 花の命が延びる。
幼い瞬は、花の命に思いを馳せ、氷河の気持ちを考えなかった。

瞬の言葉を聞いた、瞬と同じように幼い氷河は、瞬の前で口をへの字に結び、怒ったような、それでいて泣きそうな顔になった。
彼は、瞬がその白い花を喜んで受け取ってくれるものとばかり思っていたのだろう。
彼が表情を歪めたのは、その期待が裏切られたからだったのか、あるいは、見せたい花が咲いている場所に連れていくことのできない女性のことを思い出したからだったのか──。


(あの時、僕はどうして素直にありがとうって言えなかったんだろう……)
それは、思い出すと切ないばかりの記憶だった。
それからしばらくの間、氷河は瞬を避けていた──ように思う。
氷河を怒らせてしまったのかと、瞬は心配したのだが、事実はそうではなかった。

「僕、これ苦手だから……。氷河は好きだよね?」
数日後、できるなら氷河と仲直りしたいと思いながら、瞬は、その日おやつに出たシナモンのクッキーを入れた袋を氷河に手渡した。
氷河が、驚いたようにその青い瞳を見開き、それから、ぽつりと呟く。
「おまえ……俺のこと、嫌いになったのかと思ってた」

「そんなことないよ!」
そんなことは絶対にないと、瞬は言葉を尽くして説明した。
もっとも、瞬はそんな説明も弁解じみた言葉も口にする必要はなかったのである。
長い説明を聞かされている間は、どこか疑わしげだった氷河の表情が、その説明の最後に瞬が言った、
「僕は氷河が大好きだよ」
の言葉で、ぱっと明るくなる。

氷河の嬉しそうな笑顔を見た時に、瞬は、自分が何か不思議な魔法の呪文でも手に入れたような気分になったのである。
氷河の表情と態度の変化に驚きながら、瞬はその変化が嬉しかった。

「来年、花が咲いたら、バラの花、一緒に見ようね」

二人で固く約束した、その“来年”。
だが、翌年の夏には、二人はもうこの屋敷にはいなかった。
約束は果たされないまま、氷河と瞬は、遠く離れた別々の場所で、別々の夏を過ごすことになったのである。


そして、固い約束を交わしたあの日から数年を経た今日の日に、やっと、その約束は果たされた。






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