『善は急げ』
『思い立ったが吉日』
そんな傍迷惑なことわざを作ったのは、いったいどこの誰なのだろう。
その迷惑千万な諺を繰り返す瞬を責めるわけにもいかなかった氷河は、せめて、作者を殴り倒してやりたいと、痛切に思った。

「『急いては事を仕損じる』とも言うぞ」
氷河は一応の反駁を試みたのだが、パジャマに着替えて、氷河の部屋のベッドにあがりこんでいる瞬の耳に、それは聞こえていないようだった。

「んーと。やっぱり、最初にパジャマを脱ぐのかな。これ、自分で脱ぐの? 氷河、自分で脱ぐ? 脱がせてあげるのが礼儀だったりするのかな?」
瞬は、氷河のベッドの上に正座して、真面目な顔で悩んでいる。
夜は程よく更け、確かに、そういう行為に及ぶのに差し支えのない時刻にはなっていた。

しかし、である。

「あ、その前に挨拶とかするのかな。えーと、氷河、よろしくお願いします」
「…………」
「ね、部屋の電気って、つけとくの? それとも、普通は真っ暗いとこでするの? 電気つけたままにしておくと、電気消すの忘れて眠っちゃうかもしれないよねぇ?」
「…………」
「最初にキスするとか、一般的なお作法があるのかな」
「…………」
「パジャマ脱いだら、どこに置けばいいんだろ」
「…………」

恋人の部屋に押しかけてきてくれる積極性は有難いが、これではムードも何もあったものではない。
氷河が思い描いていた瞬との初めての夜は、決してこんなふうに明るく前向きな雰囲気の中で進むものではなかった。

互いを求め合う気持ち抑え難く、ためらいと羞恥を覚えつつも、迸る情熱と激情に流されて、愛欲の海に身を投じる二人──。
それ・・はそういうふうに進行するものだと、氷河は思い込んでいた──信じていたのだ。
だというのに。

「氷河?」
いつまでも無言でベッドの脇に突っ立っている氷河の顔を、瞬が見上げる。
瞬は、氷河が一向に行動を起こさないのは、未知の行為に不安と恐れを感じているからなのだと思い込んでいるらしい。
ほとんど表情らしい表情も作らず、ベッドの上の恋人を視界に映している氷河に、瞬はにっこり笑って激励の言葉を投げかけた。

「大丈夫だよ! 最初からうまくいくなんて思わないでいれば、失敗するのも恐くないでしょ。失敗するのが当たり前なんだって思って、頑張ってみようよ!」
「…………」

『失敗を恐れる気持ちがないわけではないが、それよりも。今の俺は、夏休みの自由研究に挑む小学生のような雰囲気のおまえに、やる気を殺がれているんだーっ!』
と、本当のことを氷河に言えるわけがない。

「絶対に失敗しない人っていうのは、何にも挑戦しない人のことなんだって。アテナの聖闘士がそんなんじゃ、アテナに顔向けできないよね!」
処女神アテナは果たして、自分の聖闘士たちが勇気をもって同性愛行為に挑むことを、『よくやった』と褒めてくれるだろうか──?

確かに、人に行動することをためらわせるのは、勇気の欠如だろう。
そして、人が勇気を持てないのは失敗を恐れるからである。
しかし、今現在の氷河に限って言うならば、彼をためらわせているものは、ただ一つ。
頓珍漢とんちんかん極まりない瞬の言動だった。






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