城戸邸の庭で発せられた氷河の悲鳴は、庭に面したベランダ越しに、ブラックアンドロメダのいる部屋にも届いていた。 「キグナス氷河、正真正銘の馬鹿か」 『策士、策におぼれる』とは、このことである。 白鳥座の聖闘士が幸福な人間なのは真実のようだったが、氷河が馬鹿なのは、それ以上に厳然たる事実らしい。 ブラックアンドロメダは、久し振りに、声をあげて笑った。 ──生きる目的はある。 認めたくはなかった──否、諦めていた目的。 完全に失ってしまうのが恐ろしくて、確かめようともしなかった仲間たちの安否。 敗北と屈辱で終わった過去を振り返るまいとして、ましてや懐かしんだりなどするまいとして、目を逸らしていた、自分が幸福だった季節。 それは、もしかしたら、過去にだけあるものではなく、未来に作ることも可能な夢なのかもしれない。 自分はどうすれば幸福になれるのか──。 目的がはっきりすれば、確かに、瞬を苛めて鬱憤晴らしをしている暇はなかった。 そして、その目的を実現するために力を尽くしたのであれば、その上で夢が叶わなかったとしても、その辛い現実──だが、不幸ではない──にも、耐えられるような気がした。 何もせずにいれば、決定的な絶望を見ずに済むかもしれないが、永遠に、あの幸福を取り戻すこともできない──のだ。 ブラックアンドロメダは、つい昨日まで、人間が幸せになるために 自分は幸せになってはいけないのだとも思っていた。 だが、誰も喜ばない憎悪や負い目を忘れて顔をあげ、前を見れば、そこには別の何かがあるのかもしれない。 馬鹿になりたいわけではないが、馬鹿になれたらいいと思う。 その幸福な国の言葉を語ることのできる人間に。 ブラックアンドロメダが仲間たちを『この馬鹿が!』と罵倒する時、それは『大丈夫か?』と仲間たちを気遣う言葉だった。 仲間たちが、ブラックアンドロメダを、『さっさと死んだらどうだ』と突き放す時、それは『無茶をして死に急ぐな』という、素直でない慈しみだった。 自分たちの国の言葉が懐かしい。 「あれも、馬鹿の住む国だったのかな」 あの幸福な国を取り戻したい。 ──取り戻そう。 ブラックアンドロメダは、少し“馬鹿”になって、そう思った。 そう思った時、ブラックアンドロメダは確かに幸福だった。 Fin.
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