「氷河は信じてるの? 夢見る力や……夢や人を信じる力──」
瞬は悲しいことに聡い人間だから──愚か者だったなら、どれほど瞬は楽でいられることか!──俺が瞬を慰めようとしていることも、俺に慰められた自分が己れの傷心を忘れなければならないこともわかっている。
瞬は俺のために笑顔を作り、そして、俺の肩に手を伸ばしてきた。

「それから、愛するという力もな」
俺は、瞬を引き寄せ、抱きしめて、キスをする。
それから、俺たちは、そのままベッドに倒れ込んだ。

「──以前、同じことで傷付いて泣いているおまえを見た時に、おまえの母親に生まれ変わって、おまえを守ってやりたいと思ったことがあった」
瞬を自分の下に引き込み、その顔を覗き込みながら、俺は、あの“夢”を口にした。
瞬の表情は、アテナの聖闘士のそれから、俺の恋人のそれに変わりかけている。

「僕のマーマに?」
「母親の力ってのは、偉大なもんだぞ。子供に無償の愛を信じさせてくれる」

イエスの母親がそうだったように。
我が子に拒絶されても、ひたすらに我が子を愛し続ける聖母。
誰かに愛されることで愛することを──ひいては、幸福になる術を──覚える“人間”は、自分が幸福になるために聖母の無限の優しさを求める。
俺がそうだった。
もっとも、今の俺が欲しいのは、その優しさに守られることではなく、その優しさを我が身に備えることだったが。

「わかるような気がする。氷河を見てると」
俺の下で、瞬が、羨ましそうに呟く。
瞬には、母親の記憶はほとんどない。
その分、一輝に慈しまれてきたのだろうが、一輝の愛情のほとんどは、優しさより強さでできているものだったろう。

「……ほんとはな、俺とマーマの暮らしは、おまえがイメージしてるようなものとは違ってた。──違っていると思う、多分」
芯は強いが儚げな印象の強い母親と、その母を一途に慕う幼な子。
俺たち母子おやこに対する瞬のイメージは、多分そんなものなのだろう。
だが、俺たち母子の実際は、そんな麗しいものじゃなかった。

「俺は、ちょうど反抗期で、毎日母親に悪態ばかりついて、口答えばかりしている子供だった。父親がいないのも、そのせいで他の子供にバカにされるのも、全部母親のせい。寒いのも、欲しい玩具が手に入らないのも、何もかも母親のせいにしていた。メシには文句を言い、甘いお菓子が食いたい、新しい服が着たいと無理を言い、それが叶えられないと、癇癪を起こして、物を投げつけたこともあったんだぞ」

「氷河が?」
瞬は、意外そうな顔をして、肩をすくめてみせた。
その肩は、要領のいい俺の手のせいで、とっくに剥き出しになっている。

瞬にそんな話をするのは初めてだった。
瞬が俺に抱いてくれている綺麗で可愛そうなマザコンのイメージは、崩さずにいた方が何かと好都合だったし──なにより俺自身が、そんな“実際”を忘れかけていたから。
それを口にしてしまったのは──季節が秋になったからなんだろうか。

「──俺なら、とっくに、そんな悪ガキ 見捨てている。なのに、母親ってヤツは──母親ってのは、いったい何なんだろうな。そんな悪ガキのために、平気で命を捨てる……」

それは強さでも優しさでもなかったように思う。
俺との永遠の別れを悲しんではいたが、まるで当たり前のことのように、自然に、さりげなく、彼女は彼女の命を俺の命の前に差し出した。






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