「瞬ー。ケーキ買ってきたぞー」

瞬は、未だに俺を怖がって、俺の側に寄ってこない。
もしかしたら瞬は、俺との××の何がそんなに自分を怖がらせたのかを、理屈ではわかっていないのかもしれない。
ただ、俺がいつもの俺でなかったことと、自分がいつもの自分でなくなったことを、直感的に危険だと感じてしまっただけなのかもしれない。
そうなのだとしたら、言葉で説得できない分、俺の歩む道は険しいということになる。

「モンサンクレールのパスティス・マルセイユだぞ。いつも昼前には売り切れるから、なかなか食えないと言ってただろう。開店と同時に買ってきたんだ」
再びシマフクロウになった俺の運んできたエサが気になるのか、瞬がちらちらと俺の視線を投げてよこす。
だが、瞬はまだ用心して、以前のように俺の側に駆け寄ってきてはくれない。
それでも、こうして同じ部屋の中にいるのに逃げ出さなくなっただけ、俺たちの仲は修復されつつあると言っていいんだろう。

急ぐな、焦るな、キグナス氷河。『優しい男』のレッテルは、一朝一夕で形成されるものじゃないんだ。
「ここに置くからな。気が向いたら食え」
俺は、ケーキの入った箱をテーブルの上に置いて、ラウンジを出た。
できれば、俺は、俺の運んできたエサを嬉しそうに食する瞬の姿を見たかったが、ここが我慢のしどころだ。

俺は、自分の目的を叶えるための代償としてのエサを捧げるシマフクロウでいることをやめることにした。
そうではなく、瞬に喜んでもらうためにエサを運ぶシマフクロウになることにしたんだ。
やっていることは以前と同じでも、今は目的が違う。

今の俺は、瞬が嬉しい時には俺も嬉しくて、瞬が気持ちいい時には俺も気持ちよくて、瞬が幸せでいる時には俺も幸せでいるのだということを、瞬にわかってもらうために、瞬の許にエサを運ぶ。
瞬に感謝されるためではなく、その報いを得るためでもなく、瞬に喜んでもらうために。
瞬が喜んでくれれば俺も嬉しい。その事実をわかってもらうために、だ。
そこのところをわかってもらえさえすれば、俺は、瞬に不自然さを感じさせることなくベッドで優しくしてやることができるようになるだろう。
そのためになら、シマフクロウの労苦も、オウゴンヤシハタオリドリの辛苦も、俺は少しも厭わない。

だが……。
いったいいつになったら、どれだけの時間と労力を費やしたら、瞬は、俺の気持ちに気付き認め受け入れてくれるようになるんだろう。
あの初めての夜から、既に一ヶ月以上の時間が過ぎている。
俺は、廊下で、天を仰ぎ溜め息をついた。

──その時。
たった今、俺が閉めたばかりのドアがほんの数センチだけ開いて、そこから瞬が顔を覗かせた。
それだけならともかく、なんと、瞬が、
「氷河……」
と、俺の名前を呼んでくれたんだ! 一ヶ月振りに! 俺に直接!

「あの……ありがとう」
「瞬……!」
感動のあまり、それ以上の言葉が出てこない。
言葉の代わりに、俺は、瞬の方に手を伸ばした。
途端に、瞬が頬を真っ赤に染めて、俺と瞬の間にあったドアを閉めてしまう。
俺の手は、空しくそのドアに触れることになった。

だが、俺は落胆はしなかった。
瞬の中では少しずつ、そして確実に、俺と、俺の不自然と、俺との××への怖れは薄らいできている。
俺は、今、その確かな手応えを感じていた。

『ありがとう、氷河』
瞬のその一言を手に入れるためになら、俺は一生、瞬のエサ供給係でも構わない。
どんな苦難にも、俺は負けない挫けない。
どんな優しい男にでもなってみせる。
他の奴等はいざ知らず、俺の夢は叶えるために生じ存在しているんだ。

夢のある人間が、世界で最も幸福な人間だと言ったのは誰だったか。
それで言うなら、俺は、たった今だって世界一幸福な人間のはずだ。

俺には、『瞬の優しいおムコさんになる』という、崇高にして遠大な夢がある。
その夢は、おそらく、この広い世界でただひとり、この俺にしか叶えることのできない気高く尊い夢だ。
俺は、決して夢を諦めない。






Fin.






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