「おまえは……俺が彼女の誘惑に屈するとは思わなかったのか」 「どうして? 氷河は、これまでにも絶望したっていいようなこと、たくさん乗り越えてきたじゃない。氷河は乗り越える力を持ってるんだもの。僕は氷河があの人と同じものになっちゃうなんて考えもしなかったよ」 「あの城の中で、カミュやアイザックの姿を見た」 「あのお城は、彼女の未練が作ったお城みたいなものだったから――多分、あのお城が勝手に、氷河の心の中の諦め切れないものを映し出していたんだと思う」 「……そうか」 瞬の言う通りなのかもしれなかった。 彼等の死は、確かに氷河の未練だった。 死なせずに済んだかもしれない者たちの死に対する氷河の後悔は、消えることがない。 人間とはそういうもので――おそらく、それでいいのだ。 「――おまえはなぜ諦めなかったんだ。いや、他のことでは おまえが諦めないのはわかってる。だが俺は、愛想尽かしをされても仕方ないくらい、おまえに素っ気なくし続けた」 最後に氷河は、思い切って瞬に尋ねた。 瞬が、氷河の顔を見上げて、僅かに微笑する。 「そうだね。氷河に無視されると、そのたび悲しかったのは事実だけど……。でも、氷河はそのあとでいつもすごくつらそうな目をしてた。氷河、わかりやすすぎて、かわいくなっちゃうんだ」 そう告げる瞬の瞳と声音には、邪気というものが全くない。 氷河は、ふと、エリスの言葉を思い出したのである。 『つまり、あの子の気持ちが恋ではないことが不満なんだ。それだけのことで、おまえはあの子に冷たくした』 エリスは、氷河を絶望に至らせるために、真実ではない幻想ばかりを見せ続け、偽りの言葉を吐き続けたが、彼女のその推察だけは的を射ていた。 「俺は……」 恋ではないのだろう瞬の言葉に、どう返せばいいのかがわからなくて、氷河は言葉の代わりに唇を瞬の唇に重ねた。 「氷河のキスはあったかいね」 意外なことに、瞬は驚く気配もなくそう言って、氷河の顔を覗き込んできた。 瞬の反応に驚かされたのは氷河の方だった。 そして、氷河は、瞬のその言葉で非常に不愉快なことを思い出した。 「あの女、おまえに二度までキスをしたと言っていたぞ」 「あの人、何度も僕に触れようとしたけど、近寄ってきただけで冷たくて、僕、払いのけちゃったんだ」 「俺のは――いやじゃないのか」 「どうして? 氷河はあったかいよ」 「…………」 瞬がどういうつもりでそんなことを言うのかが、氷河には本当にわからなかった。 恋を期待していいのか、あるいはそれは無邪気な信頼に過ぎないのかが。 おそらくは後者なのだろうと思う。 もし瞬の心が恋を知ったなら、瞬は、あの嵐のように激しく強い愛情を、その幸運な人間に注ぎ込むに違いない。 その幸運な人間になりたいと、氷河は心から思った。 可能性が皆無ということはないだろう。 瞬は今は氷河の腕の中にいて、互いに触れ合っていることを嫌がる素振りは見せていない。 自分を無視し続けた身勝手な男に会いたい一心で、白い魔女の世界を壊すことさえしてのけた。 なにより、瞬は生きていて、温かい。 それ以上の希望があるだろうか。 氷の城は跡形もなく消え、シベリアの春は深まりつつあった。 Fin.
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