「ご主人様、何なりとご用をお申しつけください」
翌日、氷河は、物置の床で尻餅をついている星矢には目もくれず、瞬の手を両手で包み、彼の“ご主人様”ではない人物の瞳を見詰めて、そう言った。

「おまえなぁ……」
その正直さにムカつきつつも、氷河に瞬と同じことをされるのは嫌なので、星矢は無礼な下僕にクレームをつけるのはやめることにした。
「氷河。今日は、瞬がいる教会の月に一度の大掃除の日なんだ。おまえ、俺の代わりに手伝いにいけ。瞬が、おまえの服も準備してくれてるから」
「気が利く雇い主に感謝する」

もちろん星矢の手をとるようなことはせずに、だが、存外に素直に、氷河が星矢への感謝の意を表する。
掃除の手伝いなどという仕事を嬉々として受け入れる男の気が知れなかった星矢は、ぴらぴらと片手を振って、二人を星の子学園から送り出したのだった。


瞬が育ち、今も暮らしている教会はバプテスト派系のプロテスタント教会で、星の子学園から徒歩5分ほどの場所にある。
飾りの少ない十字架の他には、キリスト像もマリア像も宗教画の一枚もなく、大掃除といっても さほど手間のかかる作業ではない。
礼拝室の窓ガラスを拭きながら、瞬は、高い天井の埃払いをしている氷河に尋ねてみた。

「氷河の呪いを解く他の方法はないの?」
「なくもないが……」
「他に方法があるの? どうすればいいの?」
瞳を輝かせて問い返してくる瞬に、その方法を教えることを、氷河は瞬時ためらったのである。
瞬に出会う以前ならともかく今は、氷河はそんな方法で自由を得たいとは思わなかった。

「つまり……俺が命懸けの真実の恋に破れれば、呪いは解けることになっている。二度と恋をする気になれないくらい強烈なダメージを受けて――まあ、要するに、自由を手に入れたいのなら恋を諦めろということだな」
「そんな……ひどい……」

“もう一つの方法”を氷河に知らされた瞬が、掃除の手を止めて涙ぐむ。
「瞬……」
瞬に泣かれるまで、氷河はそれがそんなにひどいことだとは考えていなかった。
だが、やはり、それは“ひどいこと”だったのだ。

「アテナに氷河への罰を望んだ人は、どうしてそんなことを考えたんだろう……。好きな人の幸福を望むことが本当の愛情でしょう。氷河がその人の好意に応えられなかったとしても、それはたまたま そういう不運な巡り合わせだったにすぎないのに、どうしてそんな、まるで好きな人を憎んでるみたいな――」

確かにそれは矛盾した愛である。
否、瞬の言う通り、それは既に愛や好意ではなく憎しみなのだろう。
氷河は、しかし、これまで、その女のしたことを不思議に思ったことはなかった。
欲しいものが手に入らなければ、好意は容易に憎悪に変わる。
それは人間の心の動きとして至って自然なものと、氷河は認識していた。
瞬に今、目の前で涙ぐまれるまでは。

氷河はその女の顔も名前も憶えていなかったが、彼は実は、彼女に限らず自分に好意を向けてくる者たちを鬱陶しがり、随分ひどい言葉を投げつけたことも多々あったのである。
それは、相手に恨まれても仕方ないと思える程度に、優しさのない言葉だった。

数千年前の自分の行動を、氷河は今になって初めて後悔し、反省した。
今になって、他人の好意が努力しなくても容易に手に入ることに思い上がっていた自分自身の愚かさに気付く。
4000年の囚人生活も仕方のない罰だったのかもしれないと、初めて彼は虚心に思った。






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