「先日ディオールオムが出した来年の春夏コレクションの中から2、3着取り寄せたいものがあるんだが」 氷河が求め、 「あら、この前まではハーディ・エイミスだったのに、ブリティッシュ・トラッドはもう飽きたの? 構わないけど。ええ、いいわよ」 沙織が応じる。 それは、傍で聞いている分には、ほとんど有閑マダムと若いツバメ(氷河の方が沙織より年上だが)の会話だった。 この手の会話が堂々とアテナの聖闘士が一堂に会する場で交わされるようになって2、3年が経つが、そのたびに星矢は律儀に氷河と沙織を非難し、紫龍もまた毎回渋面を作ることをやめなかった。 仮にもアテナの聖闘士が、他のことならまだしも、外見を飾るためのものに執着するなど言語道断。 しかも、氷河の“おねだり”は、スーツやシャツだけではなく、アクセサリー、パヒューム、コスメの類にまで及び、沙織の支出はかなり高額なものになっているはずだった。 星矢とて、最初から氷河の浪費にいちいち噛みついていたわけではない。 というより、その手のことに全く関心のない星矢は、氷河のそれが浪費や贅沢だということに、長いこと気付いていなかったのである。 氷河が中身でなく外見を飾るために多大な時間を費やすことを、星矢はただの“奇妙な趣味”だと思い、それを変人の氷河らしい趣味だと納得さえしていた。 星矢の態度が一変したのは、ある日、ふとした弾みで、氷河が購入したオーダースーツの値段を知ってしまった時だった。 「80万ーっっ !? 80万て、その馬鹿げた値段は何だよ! 氷河なんか、ワンコインショップで売ってるランニングで、一年中平気なはずだろ!」 100円の駄菓子を買うのに清水の舞台から飛びおりるほどの覚悟を要した幼少期の記憶が鮮明な星矢は、実は経済観念が発達している。 彼は、人間が命を維持するのに絶対必要でないものに、過剰に金や時間や手間を費やすことは基本的に無駄だと思っていた。 500円のランニングシャツで一年間過ごせる男が、なぜ 年に数回着るか着ないかの衣服にランニングシャツ1600枚分の金をつぎ込まなければならないのか、星矢には全く合点がいかなかったのである。 が、氷河は、口角泡を飛ばす星矢の非難を柳に風と受け流して、さっさとどこかに消えてしまい、その場に同席していた沙織は沙織で、 「あら、星矢も もう少し身だしなみに気を使うようにしたら。欲しいものはスーツでもアクセサリーでも何でも買ってあげるわよ」 などという、有閑マダムがすっかり板についた太っ腹な発言をかましてくれたのである。 星矢は、しかし、食べ物ならともかく洋服に釣られるような軟弱な日本男児ではなかった。 「沙織さんっ、俺たちは地上の平和と安寧を守るアテナの聖闘士なんだぞっ!」 「星矢も元はいいんだから、磨けば光るわよ」 「俺はそういうことを言ってるんじゃない!」 「冗談よ。わかってます」 ほんの少し真顔になって、独り言のようにそう言ってから、沙織は怒髪天を突いている星矢に薄い微笑を向けた。 「氷河は健気だから、できるだけのことをしてあげたいの」 「氷河が健気?」 『健気』とはいったいどういう意味の単語だったか。 少なくともそれは、スタイリングムースで髪を撫でつけ、無駄に高価な服を着て、本物の有閑マダムたちに取り囲まれ、彼女等に如才ない世辞を言ってのけることではないはずだった。 確かに氷河は、昔から人の目を奪うことを得意としていた男だった――その奇行で。 それが、ここ2、3年ですっかり普通の人間の振りがうまくなり、それどころか、自分を実際以上の人物に見せる術までを身につけて、彼は以前とは全く別の注目を浴びる存在になってしまったのである――特に女性陣に。 その行状が奇妙に過ぎるせいで誰も気付かずにいたが、もともと見場だけはいい男だったのだろう。 以前は『聖闘士でいるより、いっそ俳優にでもなった方が』というのは瞬に向けて言われるセリフだったのだが、今ではそれは氷河のためにある言葉だった。 氷河が異様に背が伸びたせいもあって、瞬は今では、むしろいつもひっそりと氷河の陰に隠れている印象が強い。 沙織は氷河の変身――それはまさに“変身”だった――を見ているのが楽しくてならないらしく、求められるままに衣服やアクセサリーを氷河に買い与えて、“化けた”氷河の姿に満悦している様子を隠そうともしなかった。 そんな氷河と沙織を 星矢たちが非難するたびに、彼女は、 「星矢たちの言いたいことはわかってるけど」 という言葉を繰り返すのである。 「でも、女は健気な男が好きなのよ」 ――と。 『健気』とはいったいどういう意味の単語だったか。 少々皮肉な気持ちで幾度も繰り返し考え、だが辞書を引くのも虚しくて はっきりと解明せずにきたその疑問を、今日も星矢は胸に抱くことになったのである。 |