「どっから出てきた単語だよ、その“天使”ってのは」
「俺の理想の女性が白衣の天使ナイチンゲールなんだ」
「ナイチンゲール?」
ナイチンゲールというものを、星矢はいまだかつてただの一度も見たこともなければ食したこともなかった。
それが女優や飲食物の類ではないのだろうことには、星矢にも察しがついたが、だからといってナイチンゲールの正体がわかるものでもない。
星矢は、氷河が口にした名詞を反復し、首をかしげることになった。

「フローレンス・ナイチンゲール。19世紀から20世紀初頭までほぼ1世紀を生きぬいたイギリス人だ。クリミア戦争に看護婦として従軍し、負傷兵を敵味方の区別なく看護して“クリミアの天使”と呼ばれた女性だな。近代看護学・衛生理論の確立者でもある」
アテナの聖闘士たちの中で唯一、定刻(7時)に食事を済ませ、10時のお茶のためにダイニングルームに来ていた紫龍が、星矢のためにナイチンゲールの出自を明らかにする。

言われてみれば、それは星矢にも聞き覚えのある人名だった。
「看護婦さんかぁ。ふーん。ま、瞬は時々、敵と味方の区別ができてないことがあるし、阿呆や助平も差別せずマトモな人間扱いするもんな。確かに天使様かもしれない」
おそらく、氷河の本意とは全く違った方向に、星矢が得心し頷く。
氷河は思い切り渋面を作った。

だが、その場には、氷河よりも渋い顔をした人間が一人いたのである。
それは、仲間たちに“天使”の枕詞まくらことばたまわりかけた瞬当人だった。
「氷河、そういう冗談はやめて」
「冗談? 俺は至って本気だが」

瞬の手からコーヒーの入ったカップを受け取った氷河が、彼の天使に顔を向ける。
彼の宣言通りに、それは全くの真顔だった。
が、だからこそ瞬は、氷河の言をますます冗談としか思えなかったのである。
万一 本気なら、なおさらやめてほしかった。

「僕は――」
瞬は氷河に抗議しようとしたのだが、星矢と紫龍の呆れた口調の皮肉に遮られて、瞬は結局そうすることができなかった。
「天使ねー。それって、あれだろ。一晩に何度も天国にご招待してくれる天使ってことだろ」
「言うに事欠いて、天使とは。エロスは詩人を作る とはよく言ったものだ」

星矢の皮肉はある意味事実であり、また、氷河は本来の自分が詩才に欠けた無粋人であると評されることは平気だったらしく、それらの嫌味には彼は反論しなかった。
そして瞬は、誰よりも氷河にこそ馬鹿にされたような気がしてならなかったのである。



■ エロスは詩人を作る : エウリピデス『ステネボイア』
『恋は人を詩人にする』と訳されることの方が多いです。



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